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Title ポニー・マーとテンセント―イノベーターの能力と企業成 Author(s) 潘, 亮亮 ; 崔, 珉寧 Citation 沖縄大学法経学部紀要(28): 71-82 Issue Date 2018-03 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/22368 Rights 沖縄大学法経学部

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Title ポニー・マーとテンセント―イノベーターの能力と企業成長

Author(s) 潘, 亮亮 ; 崔, 珉寧

Citation 沖縄大学法経学部紀要(28): 71-82

Issue Date 2018-03

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/22368

Rights 沖縄大学法経学部

Page 2: Issue Date 2018-03okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/.../22368/1/p.71-82.pdf¯B1@ eµ£ B Ë Ë l 1 ¤Z1b Ë Ë I 1998 ÏE »ª1@ í IT rªl / 3e ªE < ¿1@ e Ë Ë H »ª êµ£ * ï

1.はじめに

 本研究の問題意識の所在は、中国IT産業を代表するテンセントという興味深い企業とこの企

業を創業し現在まで急成長させたポニー ・マーという経営者の活躍を題材として、一つの優れた

企業成長を説明する際、単なる偉業を成し遂げた優れたイノベーターの視点のみならず、もう少

し必然的なプロセスとして全体の文脈と因果関係を考察すべきではないのか、という点にある。

というのは、優れたイノベーションとイノベーターの誕生を、ただ単に偶発的な出来事や大きな

運と天才的な才能をもった個人の能力によるものとして理解するのではなく、中国という特殊な

環境要因を含む時代背景とその場その場の経営者の戦略的対応といった複合的な因果関係を考察

しようとするものである。

 上で述べたことが本研究の大きな研究テーマであるが、われわれはこの研究ノートで本研究の

全てを考察するのではなく、まずこの研究に必要とされる一部の研究成果をまとめようとしてい

る。この研究ノートでは、テンセントを創業しここまで成長させたポニー ・マーという経営者を

とりあげる。なぜテンセントという企業が生まれ大きく成長できたのかを理解するために、創業

者であるポニー・マーの創業までのプロセスを考察しようとしているのである。われわれが本来

行おうとしている研究は、この研究ノートでまとめる経営者個別の能力をベースとして、イノベー

ターの個別能力を超えた複雑な因果関係を考察し、企業成長におけるイノベーターの役割を深く

理解しようとしているのである。技術とイノベーションに関する戦略的な企業のマネジメント行

動は、技術とイノベーション自体が極めて不確実性を多く持っていることと、この不確実性をよ

り確実なものにする人間の行動がより重視される時代であることから、より研究が進むべきであ

り多くの分析事例を持つべきであると考える。このような研究が蓄積されるにつれ、企業の管理

者と経営者とイノベーターのもつべき資質がより明確になっていくであろう。新しい時代におけ

【研究ノート】

ポニー ・マーとテンセント―イノベーターの能力と企業成長

The Case of Pony Ma and Tencent

潘 亮亮* 

Liangliang PAN

崔 珉寧**

Minyoung CHOI

専 門 分 野:経営戦略、イノベーション、経営史

キーワード:イノベーション、企業家精神、経営戦略、好機、コンテキスト

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沖縄大学法経学部紀要 第28号

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る新しい経営者像が必要となっている日本においても、どのようなイノベーター的な経営者を育

成すべきなのかという点から、一連の本研究が少しでも貢献できればと願う。ではまず、本研究

の分析対象としているポニー ・マーとテンセントを少し紹介しよう。

 テンセントは、1998年に創業して中国IT産業を代表する企業に成長している。テンセントの

創業者ポニー・マー(馬化騰、以下ポニー・マーとする)は1971年に生まれ、1993年に大学を卒

業した。ポニー・マーは5年後の1998年にテンセントを創業した。彼は、中国のみならず世界の

人々が知るような若くして大成功を収めた一人の経営者となったのである。

 多くの人々は大きな成功を収めた企業に注目する。大きな成長を成し遂げた企業と経営者の歴

史には学ぶべきヒントと教訓がたくさん含まれていると期待するからである。したがって、この

ような成功事例は分析対象として好まれ、実際に研究が行われている。ただ、全てがそうである

わけではないが、一部の説明ではイノベーションを起こした企業家の個別能力そのものに注目し

すぎる傾向がある。とくにメディアとジャーナリズムではこのようなことが目立つ。これが全く

間違っていると言っているわけではない。たしかに、これまでも数多くの優れたイノベーターら

は、普通の人より多くの知識と経験とここからもたされるセンスを持っているであろう。このこ

とを否定するわけではないが、これらが全てではないということである。米国アップルのスティー

ブ・ジョブズ、中国アリババのジャック・マー、日本ソフトバンクの孫正義のような経営者を思

い浮かべると、たしかに凡人ではないということが簡単に推測できる。ただ、われわれはより的

確な企業マネジメントを理解するためには、イノベーターの固有能力とは別に、彼らがその場そ

の場でアドホックに対応したマネジメント行動を、先ほどの固有能力と分離して考える必要がる

だろう。ヒーローの活躍を見ることは非常に楽しいことではあるが、企業のイノベーション戦略

を深く理解するためには、冷静に分離して考察することがより大事であろうと考えるのである。

 われわれが取り上げるポニー・マーはまさに経営とイノベーションの天才なのか。そうである

かもしれないし、そうでないかもしれない。上で述べた分離作業を徹底するならば、われわれは

こう考える。彼にはいくつかの好機が訪れ、これらに対して特定の優れた対応をとったと考える。

世界中で生まれながらの天才は思ったほどたくさんいないのではないかと思う。成功する人々は

必ず理由があると思っている。成功する人々は必ずその理由があり、一部では必然に近いプロセ

スが存在するのではないかと思われる。必ずいくつかの条件が揃えば、ポニー・マーのような人

が出現するのではないかと考えるのである。イノベーションの研究では、なぜ特定の時期に特定

のイノベーションが同じく特定の場所で多く発生するのかという大きな疑問を解き明かしたいで

ある。ポニー・マーの事例から、より多くのイノベーションとイノベーターを発生させるための

いくつかの条件を見つけ出したいと思っている。

2.ポニー・マーの概観

 ポニー ・マーは、若くしてかつ短期間で大成功を収めた。日本のドラッグストアーやショッピ

ングセンターでも、中国人旅行者の買い物の決済に対応するために、テンセントの代表的なサー

ビスの一つであるウィーチャット・ペイ(WeChat Pay)が使えるようになっている。ポニー・マー

が創業したテンセントが、この中国最大のチャットサービスであるウィーチャットを提供してい

るのである。中国におけるウィーチャットは、日本で言えばラインのような存在感である。ウィー

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ポニー ・マーとテンセント

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チャットの決済サービスであるウィーチャット・ペイとは、スマホのアプリケーションのQRコー

ドを使って、店舗への支払いと個人間送金を実現するものである1。このウィーチャットの登録

者数は11億人超と言われており、ラインの日本国内登録者数7,000万人と比較すると、その規模

の大きさが分かる。テンセントが発表した2017年第3四半期の業績からみると、テンセントの利

益は約34億円/日となる。

 テンセントの現状を分かりやすくするために、ここでは中国ネット業界トップ3社のBAT(バ

イドゥ、アリババ、テンセントの頭文字を取ったものである)の現状と一緒に説明しよう。2017

年の第3四半期のテンセントとアリババの純利益は、それぞれ3,060億円と2,958億円であった。

バイドゥはこれらより若干少なく、1,360億円であった2。3社はそれぞれ、検索エンジン(バイ

ドゥ)、Eコマース(アリババ)、SNS(テンセント)のサービスを主に中国市場を背景に行って

いる。この3社が提供するサービスは、現在の中国の人々の生活において欠かせない存在となっ

ている。バイドゥ(百度)は、中国版のグーグルといって良いだろう。バイドゥの検索エンジン

は、中国で最も人気があるサービスである。アリババは、アメリカのアマゾンのような企業であ

る。アリババのサービスは、電子商取引とオンラインショッピングサイトの提供である。

 テンセントの創業者ポニー ・マーは、1971年に生まれ、1993年に大学を卒業し、その後5年間

深センに位置するコンピュータ・ソフトウェア会社で働いた。1998年11月に、ポニー ・マーはト

ニー・チョー(張志東)と一緒に深センでテンセントという会社を設立し、1999年2月にテンセ

ントが独立開発したインスタントメッセンジャーサービス(OICQ)を提供した。これ以前に市

場には、ICQというものがあり、これはイスラエルの Mirabilis 社が開発した国際チャットツー

ルで、「I seek you(私はあなたを探している)」の意味をもつサービスである。テンセントの

OICQサービスは、この世界初のインスタント・メッセンジャーであるICQを模倣したものである。

ちなみにOICQとは「Opening I seek you」を意味する。テンセントが開発したこのOICQ こそ、

中国における最初のインスタント・メッセンジャー・ソフトであり、現在ほぼ全国民が愛用する

ウィーチャットの前身なのである。

3.テンセントの概観

 前項で述べたように、テンセントは1998年に創業した。この翌年の1999年、パソコンのメッセ

ンジャーサービスである「QQ」の提供が始まった。2003年からはオンラインゲームも始めるよ

うになった。2005年にはソーシャルネットワークサービス(SNS)を提供した。2011年、テンセ

ントの主な事業であるウィーチャットの提供を開始した。

 中国のテンセントは日本ではまだあまり知られていない。しかし、この企業は中国および世界

的に広く知られている中国の大手IT・ネットサービス企業である。現在テンセントは、メッセ

ンジャーアプリのQQとスマホ用アプリのウィーチャットを中心に、オンラインゲーム、SNS、

メディア、モバイル決済といったさまざまなサービスを行っている。

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沖縄大学法経学部紀要 第28号

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 テンセントのメッセンジャーの「MAU」は11億人超である。「MAU」とは、一か月で一度で

も利用したことのあるユーザー数のことである。ちなみにアメリカのフェイスブックのMAUは

6億人であり、日本のラインのMAUは2億人である。中国人口は13.75億人なので、中国人口全

体の約80%の人は、テンセントのメッセンジャーを利用していることとなる3。

 深センは中国最初の経済特区である。深センは、もともと経済改革の実験都市とされていた経

緯から、さまざまな規制の自由化において常に全国の先頭を走った。このスピードとタイミング

こそが、深センで多くのイノベーションのベンチャー企業が生まれた一つの重要な要因であると

考える。また、深センは「世界の工場」と呼ばれる珠江デルタの中心にあり、ITサービス産業

のみならず製造業中心の発展も成し遂げた。経済改革の実験都市であったことから、深センは、

どこよりも早く整備されたインフラを持つことが出来た。また、地理的に香港に近いこともあり、

この香港を通じて世界各国との貿易ができた。ハイテク産業に関連するさまざまな部品と設計

サービスを容易に調達できたので、極めて有利なイノベーションと技術開発の拠点となった。ま

さに深センこそ、中国最初のイノベーション都市と言えるだろう。

 例えば、スマートフォンの端末製造企業として有名なファーウェイ(華為)は、中国の広東省

深セン市で創業した企業であり、中国を代表する通信機器メーカーの一つである。2015年のスマー

トフォンの出荷台数が1億台を突破し、サムスン、アップルに次いで世界第3位になった。ま

た、BYD(比亜迪)も中国の広東省深セン市で創業した企業である。社名のBYDとは、「Build

Your Dreams」の略である。この企業は、自動車メーカーおよび電子機器メーカーである。

図3.1 テンセントの主なサービス出所:『知られざるアジアNo.1企業「テンセント」の強さを探る』から転載

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ポニー ・マーとテンセント

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4.ポニー・マーの固有能力

4.1.ポニー・マーの出生

 ポニー ・マーは、1971年に海南省で生まれて育った。海南省とは、1988年4月に広東省から海

南島及び周辺諸島が独立し、一つの海南省となった、経済特区に指定された中国の行政単位であ

る。海南島は中国の最南部の島である。海南島の面積は約33,210平方キロメートルである。海南

島の面積は九州の面積と同じくらいである。海南の人口は約900万人である。日本から海南省へ

行こうとすると、直行便がなく、中国の広州に乗り継いで行かなければならない。海南省はハワ

イと同じ緯度に位置して熱帯気候なので、東洋のハワイと呼ばれることである。海南省で一年中

を通してビーチで遊んだり、マリンスポーツを十分に楽しめるところである。

 中国の行政区分は、23の省、5つの自治区、4つの直轄市、2つの行政自治区から構成される。

中国の行政区分は日本の都道府県に相当するものである。直轄市とは、一般的に省より面積が小

さいが、日本の東京23区と似たような存在である。直轄市は、北京市、上海市、天津市、重慶市

の4市がある。北京市は中国の首都であり政治の中心である。上海市は経済と金融の中心である。

天津市は中国の北部最大の対外開放港である。重慶市は、鄧小平の故郷であり、1997年に四川省

から分離され直轄市となった。浙江省は上海と隣接する省である。紹興酒で有名な紹興市がこの

浙江省に位置している。四川省はパンダの里として有名である。黒竜江省は中国最北端の省であ

る。海南省は中国最南部の省である。

図4.1 海南省と広東省の位置出所:「中国まるごと百科事典」から転載

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沖縄大学法経学部紀要 第28号

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4.2.ポニー ・マーの幼年時代の興味

 ポニー ・マーは、魅力的な空をもつ海南に長い間住んでいたので、天文学への関心を高めた。

彼は、自分の望遠鏡をもつことを望んでいた。ポニー ・マーは自分の日記に、「もし両親が購入

しなければ、ひとりの天文学者を殺す可能性があるので、天文望遠鏡を購入してほしい」という

ことを書いたほどであった。ついにポニー ・マーの高校の時、両親は彼の人生で最初の望遠鏡を

買った。彼らは、この望遠鏡の購入に2ヶ月くらいの給料を費やした。ポニー ・マーは、この望

遠鏡で毎日星と月を見て空と対話していた。ポニー ・マーが成功した後、これまでの人生で何を

最も誇りに思ったのかと聞かれたとき、彼の答えは、1986年に深センでハレーの彗星を初めて観

測したことであった。これからみると、ポニー ・マーは天文学に深い趣味をもっていたことはた

しかであろう。今でも、ポニー ・マーのオフィスでは天文学の雑誌を置かれてある。テンセント

のすべての従業員も、このポニー ・マーの趣味を理解している。

 大学進学の時、ポニー ・マーは進学担当先生に天文学の進路を聞いたことがあった。当時、天

文学を専門とする進学は南京大学くらいしかなかった。また、天文学学部の卒業生のほとんどは

地理の教師として就職した。ポニー ・マーも、本人が将来地理の教師になる可能性が高いと思っ

た。しかし、彼はもうひとつのことにも高い関心がもっていた。これは、1980年代のハイテク技

術発展を過ぎて1990年代多くの注目を集めていたコンピューター技術である。ポニー ・マーは、

深セン大学のコンピューター科学および技術学科に入学した。

 ポニー ・マーの父は、南下幹部、経済学者、深セン市海上運送本社の社長だった。南下幹部

とは解放戦争末、北から南に赴任し各地で革命と建設に当たった幹部であった。解放戦争とは、

1945年8月から1950年6月までの中国共産党と国民党との闘争のことである。1919年に結成した

中国国民党と1921年に生まれた中国共産党は1937年からの日中戦争では日本を共通の敵として協

力した。しかし、日本の敗戦後、また対立して内戦をした。1949年に共産党が勝利し中華人民共

和国の建国を宣言した。一方、国民党は台湾に撤退して政権を維持した。

4.3.ポニー・マーの教育環境

 1984年、ポニー ・マーの父は深センに赴任したので、家族も深センに定住した。深センは中国

広東省の都市である。深センには、夏と冬しかない。四季の移り変わりがなく、亜熱帯海洋性気

候なので、基本は夏である。一年のうち、4~ 10月は夏、1~2月が冬である。年間平均気温

は22.4度、最高気温は38度、最低気温は1.4度のことである。深センに1979年7月、経済特区が

設置された。深セン経済特区は、中国国内で最も早く指定された経済特区であり、改革開放のシ

ンボル的存在であった。深セン経済特区では、三大支柱産業が指定された。それぞれ、パソコン

や通信を始めとする電子情報産業、バイオ医薬産業、衣料や時計など日用消費財産業であった。

深センは、中国の最初の経済特区として優遇されたことと、香港のすぐ隣という位置するという

地理的条件から、次第に大都市へと成長していった。深センは、広東省の南端に位置し、南側を

香港の新界と境を接し、香港島まで鉄道で45分がかかるところである。香港特別行政区は,中国

からイギリスに1842年の南京条約で割譲された香港島と、1860年の北京条約で割譲された九竜半

島と、1898年までに99年の期限で租借した新界に分かれるいた。

 中国政府は、改革開放の政策に沿って、1979年7月より広東省の深センとジュハイとサン頭の

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ポニー ・マーとテンセント

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三つの地域と福建省のアモイを経済特区に指定した。改革解放とは、鄧小平が行った中国国内体

制の改革および対外開放政策のことである。よく知られている「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕る

猫がいい猫だ」という思想を元に、農民の生産性を向上させようとした政策である。改革開放の

内容は、経済特別区の設置、人民公社の解体、海外資本の積極的な導入などのことであり、これ

によって市場経済への移行が推進された。

 1988年に海南市も経済特区に指定された。経済特区とは、対外開放のテスト地域として指定さ

れたもので、「技術導入、管理、知識、対外政策」の窓口的役割を担っている。経済特区は、経

済を急速に発展させるために、主に外資を利用しながら特殊な経済政策および特殊な経済管理体

制を実行する場所である。また、経済特区政策は、先進的技術と設備および経営管理の方法を導

入する政策である4。ジュハイ経済特区は、中国の広東省の南部にある。ジュハイ経済特区の総

面積は1,732.33平方キロメートルである。ジュハイ経済特区の人口は、約165万人である。ジュ

ハイ経済特区は、大阪府よりやや小さい面積の行政区である。サン頭経済特区は、中国の広東省

の東部にある。サン頭経済特区の総面積は、2,198.7平方キロメートルである。サン頭経済特区

の人口は、約560万人である。ちなみに、福建省のアモイ経済特区の総面積は、1,699.39平方キ

ロメートルである。アモイ経済特区の人口は、約373万人である。

4.4.ポニー・マーの大学時代

 ポニー ・マーは、1989年から1993年までに深セン大学で勉強した。専門はコンピューター科学

および技術であった。深セン大学は、1983年に創立した経済特区にある唯一の総合大学であり、

香港に一番近い大学である。深セン大学は先進的な教学施設を備えている。

 深セン大学に入ってから3年後の1992年、ポニー ・マーは大学卒業に直面することとなった。

1992年は鄧小平が南巡講話をした年であった。南巡講話とは、1992年1~2月に鄧小平が中国南

部の深セン、ジュハイ、上海などの諸都市をめぐって開いた講話であった。各地で行なった講話

で、鄧小平は外資導入による経済建設を積極的に推進することを力説した。

 1990年代初め、株式市場は一般の人々に注目の的となった。全国の人々が株に投資した。鄧小

平が南巡講話で「科学技術は第一次生産力」と主張していたおかげで、株式市場は上昇していた

のであった。1992年5月21日、上海証券取引所がわずか15株の上場株式の価格制限を自由化し、

株式市場が急騰した5。価格制限が解除されたことから、上海株式は一日最大105%まで上昇した。

また、株価指数は二日続き急騰した。株式相場は4日後の25日にピークに達した。このような株

式市場の急騰によって、ますます中国の多くの人々は、株式市場が短期間で一般市民を豊かにす

る手段であると強く信じ始めていた。ポニー ・マーも、株に投資することが好きだったので、株

式市場を通じてお金を稼いだ。彼が保有していた会社の株は7倍になった6。ある人は当時の状

況を次のように述べた。

「会社の下の階は、証券営業所であった。証券営業所で5元の株式を確認した後、2階のオ

フィスに戻ってこの株式を購入しようとすると、5元の株価はもう6元に上昇していた」

 しかし、ポニー ・マーの場合、株を投資することから稼いだだけではなく、自分の専門知識を

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沖縄大学法経学部紀要 第28号

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活用して株式市場でさらなるお金を稼いだ。ポニー ・マーは、大学卒業の前に株式分析システム

を設計した。この株式分析システムをある会社が5万元を支払って購入した。ポニー ・マーは喜

んだ。コンピューターに株式市場ボードカードがインストールされ、このボードカードを搭載さ

れたコンピューターでは、リアルタイムで株式の動向を把握することができた。リアルタイムで

株価動向が見えることは、株式投資家にとって非常に嬉しいことであった。ポニー ・マーは、こ

の大きなビジネスチャンスを見つけ出したのであった。彼は、ボードカード市場からさまざまな

ボードカードを購入し、これらをすべて解体し、それぞれのボードカードのメリットとデメリッ

トを分析した。ポニー・マーは、ソフトウェアを専門とする友人らを参加させ、彼らは、株式受

信システムの株式ヘゲモニーカードを発売した。株式ヘゲモニーカードの評判は非常に高く、こ

の株式ヘゲモニーカードの価格は最高2,000元まで上がっていた7。

4.5.ポニー・マーの就職経験

 1993年7月、ポニー ・マーは、大学を卒業しなければならなくなった。彼は卒業後の進路を考

えていた。彼は、道路の隣にあるコンピューターを組み立て屋を見ていた。コンピューター組み

立て業はかなり利益を得られるのではないかと思った。ポニー ・マーはお店の人に話を聞いてみ

た。お店の人によると、業界の競争が激しくて利益は少ないとのことであった。ポニー ・マーは、

自らコンピューター関連のビジネスを始めることをあきらめて、まずサラリーマンの仕事をする

ことを決めた。

 1993年深セン大学を卒業した後、ポニー・マーは、潤訊という会社に入った。潤訊は1990年に

設立された企業である。潤訊は、1990年代の中国のポケットベルのトップ会社であった。潤訊は、

銀行から200万ドルを借りて、ネットワークシステムを構築するための設備を備えた。この設備

投資は競争上の優位になり、潤訊は次第に大企業へと成長した。潤訊は、設備投資の優位のほか、

また2つの特別な背景がもっていた。ひとつは、潤訊の従業員が通信システムや無線管理委員会

で働いていたことから、人脈という人的ネットワークの資源が豊かだったことである。もうひと

つは、クロスボーダーモードの運用である。この企業は、同じ業界の他の企業とは異なり、香港

と中国本土の2つのシンクタンクを持っていた。しかし、国家電気通信部は外資系企業の数を制

限したので、本土市場に参入することは難しかった。本土への参入がうまくいかなくなると、潤

訊は香港市場に参入し、巨額の利益を得た。香港の後、急速に深セン市場をねらい、この勢いで

全国市場へと市場拡大を行なっていた。

 潤訊の業績がピークであった時期、当社の年間利益は6億元だった。毎年大きな収入があった

ので、従業員の待遇は当然良かった。当時、この企業は、深セン市で最も待遇の良い会社といわ

れており、約2万人いるスタッフのランチを無料で提供していた。ポニー ・マーの給料は、月1,100

元だった。下の表からみると、1993年、深セン市の1ヶ月の平均収入は679元であったことがわ

かる8。潤訊で働いた5年間、ポニー ・マーがもらったのは平均給与の2倍の給与だけではなく、

顧客リソースをも得ることができた。ポニー ・マーは、潤訊の勤務期間中に蓄積した顧客リソー

スをあったことから、テンセントの創業の基盤を築くことができた。

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ポニー ・マーとテンセント

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 メッセージだけを伝えるポケットベルは、1990年代前後、中国全国に広がった。1995年から

1998年の4年間、全国ポケットベルの利用者数は毎年平均1,593万人増えていった。ポケットベ

ルは、深センでピークに達した。1997年、深センのポケットベルの会社は82社あった。深センの

ポケットベル利用者数は180万人であった。ちなみに1997年の深センの人口は、約380万人であった。

 1998年2月1日、ディン・レイという人は7ヶ月をかかって、網易無料の電子メールシステ

ムを構築した。また、163.netというドメインを作った。このドメインは119万元(約1,950万円)

の価格で販売された。このディン・レイも、ポニー ・マーと同じような普通のエンジニアであり、

普通のエンジニア出身の人が金持ちとなったのである。このディン・レイの話は、ポニー ・マー

に大きな影響を与えた。彼に、創業できるという自信を与えたのであった。ポニー・マーはこれ

から数ヶ月考えた後、1998年10月、会社を辞めた。

4.6.ポニー・マーの友人関係

 ポニー・マーとトニー・チョーは、テンセントという企業を創業した。トニー・チョー(張志

東)がもう一人のテンセンの創業者であり、1998年11月から最高技術責任者(CTO)を担当し

た。トニー・チョーは、テンセントの独自技術の研究と開発、および業界をリードする技術開発

チームの形成を担当した。チョーは、1993年に深セン大学でコンピューターの学士学位を取得し、

1996年に華南理工大学のコンピューター・アプリケーションやシステムアーキテクチャの修士学

位を取得した。2014年9月からテンセントの終身名誉顧問を担当している。ポニー・マーは、テ

ンセントという企業のあるべき姿の青写真を描くことを担当する一方、トニー・チョーはテンセ

ントを支える技術の実現を担当したのである。

 トニー・チョーは、1972年に広東省で生まれた。トニー・チョーの父は、清華大学の工学物理

学科を卒業し、家族と親族の中の最初の大学生であった。トニー・チョーの母は教師であった。

トニー・チョーは数学を得意とした。チェスと囲碁にも大きな興味がもっていた。中学校の夏に、

トニー・チョーはコンピューターキャンプで初めてソフトウェアプログラミングに触れることが

できた。このキャンプをきっかけとして、トニー・チョーは、コンピューターを楽しむこととなっ

た。高校の時、ようやく初のコンピューターを購入することができた。彼は、一日中、寮に閉じ

こもってプログラミングのコーディンを行なっていた。1989年に、彼は、高校のクラスでプログ

ラミングのコーディングの最高点を取得し、深セン大学のコンピューターアーキテクチャー学科

表4.1 1990年から1995年までの深セン市給与所得者の平均給料

年 度 1年間平均給料(元) 1ヶ月平均給料(元)

1990 4,304 359

1991 5,016 418

1992 5,931 494

1993 8,145 679

1994 10,572 881

1995 12,276 1,023

出所:深セン市統計局データから作成

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に入学した。ポニー・マーと大学で同じクラスになったのであった。ポニー・マーとトニー・チョー

はいずれも大学でトップレベルの能力をもっていたが、トニー・チョーの方が、コンピューター

技術に関しては、より高い成績を取り、より優れた能力をもっていた。トニー・チョーは、深セ

ン大学のコンピューター技術のトップであっただけではなく、当時の深センのコンピューター

業界のトップ技術者でもあった。テンセントの最初の製品であったQQのアーキテクチャーは、

1998年にこのトニー・チョーによって設計されたものであった。10年以上経って、QQサービス

のユーザー数は数百万人から数億人に増加した。しかし、トニー・チョーが設計したこのアーキ

テクチャーはまだまだ適用可能性を秘めていた。

 通常の技術者とは異なり、トニー・チョーは、「ある日、技術は人生を変える」という大きな

夢をもって、この実現のために日々努力していた。トニー・チョーと一緒に華南理工大学での修

士課程にいた同級生は11人であった。この11人の同級生のうち、10人が良好な会社や国営企業を

修了後の進路として選び、トニー・チョーは、深センに戻り、個人経営のコンピューター企業で

働いていた。彼は、このコンピューターの中小企業で、ソフトウェアとウェブアプリケーション

システムの研究開発を担当した。しかし、彼はこれまでもっていた夢を実現することはできなかっ

た。なぜならば、当時はコンピューター関連の仕事があまりなく、また、最終消費者と直接つな

がるビジネスがほとんどなかったからであった。トニー・チョーは、ポニー・マーと一緒にテン

セントを創業し、インスタント・メッセンジャーの製品開発のおかげで、ようやく「ある日、技

術は人生を変える」という自分の夢を実現する機会を得たのであった。

 OICQを開発した時、インターネットユーザの体験に基づいて、トニー・チョーはOICQの抜

け穴を見つけ修正作業を行なっていた。OICQの最初の週、テンセントは3つのバージョンの更

新を行なった。これによって、より多くのユーザーの興味を呼び起こすことができた。QQサー

ビスの場合も、ほぼ1~2ヶ月ごとにバージョンを更新した。このようなスピーディーなバージョ

ン更新は、当時の状況では稀なことであった9。

 ポニー・マーは、中国のフェドネットというネットワークから先端情報を得ることができた。

中国のフェドネット(FidoNet)は1991年に生まれ、最も人気のある時期は1993年から1998年で

あった。フェドネットとは、電話回線で接続されたBBSインターネットネットワークのことであ

る。中国のフェドネットは、公式のウェブサイトではなく、中国のコンピュータネットワークの

通信愛好家によって作成されたネットワークシステムであり、彼らによって運用と維持が行われ

た。コンピューターの専門家として、ポニー・マーも、フェドネットに多くの関心を持ち、半年

間を費やして最後に深センにサブステーション(ponysoft)を設置することを決めた。BBSは

商業的利益に関与するものではなく、コンピューターのアマチュアの交流の場である。この場で、

みんなは仕事と生活を共有し、異なる人生を交流した。フェドネットを通じて、多くのインター

ネットの専門家が集まり、みんな互いにメッセージを交流した。ポニー・マーは、これらの人々

から多くの最先端の情報を得ることができる。興味深いことは、フェドネットの構築に参加する

多くの人々がのちに中国インターネットの先行者になったことである。例えば、金山ソフトウェ

ア会社のキュウは珠海西ポイントを構築した。金山ソフトウェア会社は、中国最大のソフト開発

販売会社の一つである。8848のオウは、福州ポイントを構築した。8848は中国の最初の電子商取

引の企業である。

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5.おわりに

 世界中で生まれながらの天才は思ったほどたくさんいないのではないかと思う。成功する人々

は必ず理由があると考える。ポニー・マーは、確かに運が良くて頭のいい人であるが、彼の成功

理由はこれだけではなく、彼の成長環境、家族影響、教育環境、国家政策などが大きな成功要因

として考えられるであろう。ポニー・マーはたしかに経営とイノベーションの領域で、普通の人

より多くの知識と経験をもっている。しかし、ポニー・マーの固有能力とは別に、彼にはいくつ

かの好機が訪れて、また、彼はこれらの好機に戦略的に対応したのであった。ポニー・マーを分

析対象として、1990年代後半から2000年代前半までの中国のIT産業の当時の状況を見て、それ

ぞれの時間と空間の背景を深く考慮し、これによってより複眼的にイノベーションを理解しよう

とすることが、本研究の目的であった。グラッドウェルは『天才!成功する人々の法則』のなか

で以下のように述べた。

「成功が、蓄積される優位点から生まれてると述べた。あなたがいつ、どこで生まれ、親の

仕事が何で、どんな環境で育ったか。それが、成功するかしないか大きな差をもたらす。・・・・・・

複雑な仕事をうまくこなすためには最低限の練習量が必要だという考えは、専門家の調査に

繰り返し現れる。それどころか専門家たちは、世界に通用する人間に共通する。“魔法の数字”

があるという意見で一致している。つまり一万時間である。10」

 グラッドウェルは、優れたイノベーターがただ単なる偶発的な要因によって生まれるわけでは

ないと力説する。ポニー・マーは、海南で生まれ、深センで成長した。海南も深センも経済特区

なので、経済発展が著しく、さまざまな規制の自由化は全国の先頭を走った。とくに深センは、

中国の最初の経済特区であったことから、経済特区のなかでも経済をリードする地位である。中

国で深センはイノベーションの都市と呼ばれる。深センでたくさんのベンチャー企業が生まれ成

功した。ポニー・マーの父も社長であったことから、家庭環境でポニー・マーはビジネス感覚を

もつこともできたであろう。また、ポニー・マーも一万時間が達していた。大学で計算機専門を

勉強し、会社で5年間働いた。一万時間が十分すぎた後、彼はやっと創業した。

 本研究は、なぜ特的の時期と場所とイノベーションが発生するようになったのかを、深く理解

しようとした。優れたイノベーターがただ単なる偶発的な要因によって生まれるわけではない。

成功する人々は必ずその理由があり、一部では必然に近いプロセスが存在するのではないかと思

われる。必ずいくつかの条件が揃えば、ポニー・マーのような人が出現するのではないかと考え

るのである。

           *  沖縄大学大学院現代沖縄研究科修士課程** 沖縄大学法経学部法経学科 准教授

注1 https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1068485.html、2018年1月20日閲覧。2 https://milalink.com/news/1704/、2018年1月20日閲覧。

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3  「テンセントとはいかなる企業か? 時価22兆円、ゲーム世界一、WeChat 11億人の脅威」『ビ

ジネス+IT』、2016年6月20日。4 董成美「中国経済特区の若干の問題について」。5 マチンセン、ゴウチン(2003)『中国証券史(1978-1998)』中国金融出版社(中国語文)。6  ポンヨウ、ラオウェシャン、トウトウ(2016)『テンセント帝国の真相 』電子工業出版社(中

国語文)。7 オウシュンエン(2015)『ポニー ・マの碁』電子工業出版社、12頁。 8 リンジュン(2010)『沸騰15年』周商出版社。9 http://news.pedaily.cn/201704/20170421412078.shtml、2018年1月28日閲覧。10 マルコム・グラッドウェル(2009)『天才!成功する人々の法則』。

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ポニー ・マーとテンセント