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  • 10│世界史のしおり 2016②

    maddison-project/home.htm)。このマディソン推計のデータにもとづき,中国経済の長期的なプレゼンスの変化を大まかにみてみよう。図3によると,中国の実質GDPが世界に占める割合は,1500年から18世紀前半までは20〜30%を占め,19世紀前半には30%をこえていたのが,19世紀後半にかけて低下し,20世紀後半には5%程度にまで落ち込んでいる。しかし注目すべきは,2001年に再び割合が上昇し,10%以上に達している点である。こうした21世紀にかけての拡大は,近年の中国の経済大国化のイメージと合致すると同時に,長期的にみた中国経済の再興を示すものといえる。

    20世紀末以降の中国の経済発展はどのようにしてなしとげられたのだろうか。図3にもとづけば,その起点は1973年から2001年の間にあり,具体的には1980年代の改革開放政策の推進がその契機となったと考えられる。しかし,1980年代以降の急激な成長は事実であるにせよ,19世紀後半から1970年代までの期間が単に停滞的であったととらえるのは誤りである。近年の経済史研究は,19世紀後半以降の中国経済の長期的な発展過程に光をあてており,改革開放以後の高度経済成長もその文脈のなかで理解されるべきである。19世紀後半以降の長期的な発展の端緒となったのは,1842年の開港である。一般に,開港により中国の「半植民地・半封建化」が進み,経済が停

    ●大国化への道のり

    滞したとイメージされているが,1880年代以降に一次産品輸出を中心とした欧米・アジアとの国際貿易が本格化したことにより,上海をはじめとする開港都市を中心に「開港場市場圏」が形成され,資本蓄積が進んだ。そして大きな画期となったのが,中華民国成立(1912年)後に勃発した第一次世界大戦(1914〜18年)である。欧州からの工業製品輸入の途絶が,綿業,製糸業,製粉業,タバコ,マッチなどの軽工業分野における中国資本企業の本格的な勃興をうながした。こうした工業化は,先行する日本にキャッチアップする形で進められ,世界恐慌(1929年),日中戦争(1937〜45年),中国国民党と共産党の内戦(1946〜49年)などにより阻害されたものの,1940年代までに一定の水準に達していたことが明らかになっている。1949年の中華人民共和国成立以後の経済発展は,こうした中華民国期までの蓄積を引きつぎつつ,従来とは大きく異なる経済制度のもとで展開した。中国共産党政権は,生産手段の公有化と計画経済の実施(=市場経済の否定)を柱とする社会主義体制を導入し,「重工業優先発展戦略」にもとづいて重工業への投資をおし進めた。その一方で,1950年に勃発した朝鮮戦争を契機として西側諸国との経済関係が制限され,また1950年代末にはソ連との関係も悪化するなど,国際的には孤立状態におかれた。図4は,1932年から2010年までの中国の実質GDPとその成長率を示したものであるが,計画経済期(1949〜78年)の経済成長率は,1930年代よりも相対的に高いものの,1958〜60年の大躍進政策の失敗(図5参照),1966〜76年の文化大革命の混乱などによる急激なマイナス成長を含む,不安定な成長の時期であった。これに対して,1978年以降の改革開放期は,図4が示すように,安定的な高成長を実現した時期といえる。改革開放政策とは,社会主義体制の「改革」と,対外的な「開放」を意味するものである。「改革」は,農業生産請負制による集団農業の解体や国有企業の改革といった生産手段の公的所有制の転換と,計画経済から市場経済への移行がおもな内容で,一般に,ソ連・東欧が急進的な改革により著しい経済的停滞を経験したのに対して,

    〈図3〉16世紀以降の世界GDPの比率の変遷 『最新世界史図説タペストリー 十四訂版』巻頭p.Ⅵ

  • 世界史のしおり 2016②│11

    漸進的で経済成長への悪影響が少なかった点で評価されている。他方,「開放」に関しては,その目玉は外資企業の受け入れであった。とりわけ広東省・福建省などの沿海部に経済特区が設置され,外資企業を誘致して製品の海外輸出を奨励する,いわゆる輸出指向型工業化が促進された。これこそが中国が「世界の工場」とよばれるようになる契機である。2001年にはWTOへの加盟を実現し,世界経済とのつながりはますます本格化した。こうした改革開放政策は,いうなれば従来の社会主義体制の統制的制度を部分的にゆるめる措置であったが,この制度変更に敏感に反応した地方政府やその傘下の企業(郷鎮企業を含む),民間企業,そして外資企業が成長のエンジンとなり,中国は経済大国への道を歩み始めたのである。

    こうしてみると,19世紀以降の中国経済の発展過程は,大まかにいえば,開港を端緒として近代的な経済発展が始動した時期(清末〜中華民国期),世界経済とのつながりが縮小し独自の発展が追求された時期(計画経済期),再び世界経済と結びつくなかで急激な発展を実現した時期(改革開放期)という三つの段階に分けられる。中国経済はこれらの段階を通じて,前近代の農林水産業を中心とする社会から鉱工業・サービス業を中心とする社会へとゆるやかに変動していったので

    ●大国中国と世界経済

    ある。それは,中国経済が産業革命以降の世界経済の趨勢に対応していく長期的な過程であったともいえ,改革開放期はその試みが一気に加速し花開いた時期と位置づけられる。ここで重要な点は,改革開放期の中国の経済発展が,前近代とは比較にならないほど強く世界経済と結びついているという事実である。例えば,経済特区の設置による外資企業の誘致は,日本や韓国・台湾などのアジアNIEsから多くの投資をよび込み,東アジア生産ネットワークとよばれる国際分業体制を形成した。そのわく組みでは,中国で組み立てられた最終製品が欧米をはじめ世界各国へと輸出され,中国に膨大な外貨をもたらす。そしてその外貨を有効活用すべく,2000年代に「走出去」といわれる中国の対外投資拡大が起こる,という世界経済との相互連鎖の構図が存在する。つまり,中国は,世界経済とのつながりのなかで経済発展を達成する一方で,世界経済のプレーヤーとしてそのシステムのなかに組み入れられることとなった。そしてそこでのプレゼンスが拡大するにつれて,既存の国際経済秩序と衝突するケースも必然的に増えてくる。近年の中国がみせる既存の国際経済秩序への挑戦ともとれる行動には,こうした実態としての中国経済と世界経済との強い結びつきという背景が存在するのである。

    【参考文献】アンガス・マディソン著,金森久雄監訳,政治経済研究所訳『経済統計で見る世界経済2000年史』(柏書房,2004年)岡本隆司編『中国経済史』(名古屋大学出版会,2013年)久保亨・加島潤・木越義則『統計でみる中国近現代経済史』(東京大学出版会,2016年)丸川知雄・梶谷懐『超大国・中国のゆくえ4──経済大国化の軋みとインパクト』(東京大学出版会,2015年)

    南亮進・牧野文夫編著,尾高煌之助・斎藤修・深尾京司監修『アジア長期経済統計3 中国』(東洋経済新報社,2014年)

    〈図5〉①鉄鋼の増産 『最新世界史図説タペストリー 十四訂版』p.296(写真:ユニフォトプレス)

    〈図4〉中国の実質GDPと成長率(1932~40年,1952~2010年)

    出所:久保ほか(2016)p.17。原データは南・牧野(2014)p.360。注:実質GDPは原表の1952年参照年価格表示。