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関西学院大学図書館報『時計台』

関西学院大学図書館報『時計台』

ISSN 0918-3639

コーベルガー『ラテン語聖書』とグーテンベルク『42行聖書』

表紙解説

(表紙 題字:山崎掃雪)

巻頭言「知の発信基地」としての大学図書館 大学図書館長 井上  智

顔の見える図書館をめざして 大学図書館長 井上  智

さらなる開かれた図書館へ 大学図書館副館長 加藤 哲弘

実践的教育ニーズに応える図書メディア館 大学図書館副館長 中野 幸紀

関西学院大学図書館所蔵資料展「近代への扉」開催報告

学術情報データベースの導入と利用促進    -ゼミ単位のオリエンテーションとその活用事例-

 西宮上ケ原キャンパス大学図書館   「情報感度は図書館度!:戦略的情報館としての図書館」 商学部助教授 新倉 貴士

  「ゼミ対象オリエンテーションにおけるデータベース検索指導」 大学図書館利用サービス課業務主担当 魚住 英子

 神戸三田キャンパス図書メディア館   「外国語論文を見つける楽しさ」 総合政策学部教授 渡部 律子

  「情報収集スキルアップガイダンス」 神戸三田キャンパス図書メディア館 八木香名子

第4回J.C.C.Newton賞   最優秀賞受賞作「黄金のエルサレム」 神学部4年 宮本 ゆき

関西学院大学図書館所蔵の15世紀刊行聖書について 早稲田大学図書館 雪嶋 宏一

特別図書資料解説 モスラー教授旧蔵書コレクション 法学部教授 岡野 祐子

『LIFE』によせて 文学部教授 田中きく代

小島蔵書の概要と紹介 商学部教授 森本 達夫

「引く」事典と「読む」事典-ドイツの百科事典『マイヤー』の初版について 商学部教授 早島  瑛

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「知の発信基地」としての大学図書館

図書館の歴史をたどると、図書館を長い間支配していた「保存」第一主義から、保存されている図書・資料のすべてを学生、教師・研究者、一般市民に公開するという考え方へ大転換したのは比較的新しいことであることが分かります。1895年、ブリュッセルで開催された国際書誌学会で「すべての国の、すべての時代の、科学、文芸、芸術上の著作のすべてを網羅し、本や小冊子、写本などの目録はもちろん、雑誌や学会の刊行物に収められた論文の目録も含めた広範な総合目録」の編纂が求められてからのことでした。そのためには、M.デューイの十進分類法や彼がコロンビア大学にアメリカ最初の図書館学校で育成する「能力のある、まじめな」で「教育者」でもある図書館員が必要となりました(A.マソン/P.サルヴァン『図書館』1980)。これら蔵書目録や図書館員のありようが、図書館の蒐書数やその内容とともに図書館の質を左右する重要な要因となります。本大学図書館も第4代W.K.マシュース館長の時代に、デューイ十進分類法とカッター・サンボーン著者記号表を採用し、また中島猶治郎を1921年にニューヨーク図書館学校へ留学させ、図書館員の能力の向上に努めるなどしながら、「利用者へのサービス」の充実を図ってきました。このような姿勢はいまなお本大学図書館の運営の基礎になっています。とりわけ、他

大学にあまり例をみないような大学図書館集中管理方式は、図書・資料を蒐集・分類し、現在ではOPAC(オンライン目録)に代わられた目録情報の作成にとって有効に機能してきました。ただ、それにもかかわらず、学内には未だ大学図書館の提供する図書・資料のデータには含まれていない貴重な図書・資料・史料・美術品が存在しています。例えば、1924年設立された高等商業学部調査部にその起源をもつ産業研究所の貴重で特徴ある資料群です。もちろん独自の資料検索システムでその内容を検索できますが、大学図書館図書・資料とのクロス検索が出来ないため利用者にはきわめて不便となっています。また、学院史編纂室も本学院の歴史に関わる多くの貴重な一次資料を所蔵していますが、今なおそのデータは学内からでさえ十分には検索できない状況にあります。さらに、現在、学内各部署で所蔵している卒業生などから寄贈された貴重な美術品については、整理・データ作成がやっと学院史編纂室によって始められたばかりで、データの公開はまったく出来ていません。以上述べてきたようなデータ収集・管理・発信が大学図書館としての業務に相応しい

ものかについてはさまざまな意見があると考えられますが、すくなくとも大学図書館はこれら他部署の所蔵するデータの把握に今後とも努めたいと考えています。それによって、本大学図書館が関西学院の「知の発信基地」としての地位をさらに高めることができると信じているからです。

大学図書館長 井上  智

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No.74

巻 頭 言

怒涛のように押し寄せる大学改革の波の中で大学図書館はどのような役割を演じられるでしょうか。新しく設置される学部・学科、専門職大学院、研究COEや教育COEへの取り組み、さらには既存カリキュラムの大幅な変更。このようにこれまで日本の高等教育史上例を見なかったような構造改革が進行しています。それも、自己評価に止まらず第三者評価という厳しい批判の目を受けながら。このような激変の中で大学図書館は、いよいよ厳し

さの増す予算上の制約にあって、教育・研究の質の維持・向上のためにこれまで以上に効率的に選書し、蒐書する必要があります。それも情報媒体が激変し、ますます大型化し、その支出の肥大化にも目配せをしながら対応することが求められています。しかし、それだけでいいのでしょうか。すでに、新大学図書館建設後、本大学図書館は「知の発信基地」を目指してこれまでも学内展示や特別展示・学術資料講演会を開催してきました。このような「知の発信基地」としての役割を充実し、関西学院大学図書館が「ナンバー・ワン」ではなく「オンリー・ワン」を目指すことが重要ではないかと考えています。幸いなことに、ここ数年本大学図書館はさまざまな

形で「オンリー・ワン」を学内外に示すためのこころみをしてきました。2002年10月には本大学図書館所蔵の聖書をもとに田淵結文学部教授・大学宗教主事のご協力を得て制作されたビデオ『聖書と関西学院』は、授業はもちろん、さまざまな催しで利用されてきまし

た。これは、『グーテンベルク42行聖書』(1455?)、『コーベルガー版ラテン語聖書』第三版(1478)、『エラスムス校注によるギリシャ語新約聖書』初版(1516)・第二版(1519)をはじめ、『訓點舊約聖書創世記』(1881)、『訓點舊約聖書民數紀略』(1882)など、関西学院の建学の精神を示す『聖書』を学部と大学図書館が予算面を含めて協力して購入してきた成果です。このようなビデオ作成とともにこれら『聖書』の五枚組絵はがきを作成し、大学図書館のさまざまな催しの記念品として配布するとともに大学生協でも販売してきました。また、昨年9月には、多くの関係者の皆さんのご理解

とご協力を得て「オンリー・ワン」を学内外に示すための大きな第一歩を踏み出すことができました。それは、東京オフィス開設ならびに企業懇談会と教育懇談会の東京開催に合わせて企画した本大学図書館主催による「近代の扉」と題した「関西学院大学図書館所蔵資料展」でした。この本大学図書館として最初の、またおそらくは関西の大学図書館の最初の試みは、関西学院の同窓会・後援会・高等部育友会・中学部P.T.A.の後援に加えて丸善、紀伊國屋書店、雄松堂各書店、図書館流通センター、日本ファイリングの協賛をえて催されたものでした。その内容は、「近代短歌~与謝野晶子を中心として~」、「書物としての聖書」、「経済学と会計学の世界」、「古文書にみる阪神地域の産業」、「ヴォーリズと関西学院」という5つのテーマを柱とするものでした。これらのテーマは、いずれも関西学院の特徴を示すものであるとともに、本大学図書館がこ

れまで開催してきた学内展示や特別展示・学術資料講演会の成果を反映したものでした。同時に、この資料展のパンフレットを館報『時計台』の特集号(No.73)として発行することもできました。それは、本大学図書館蔵書の「オンリー・ワン」を学内外に学術的に発信するものとなりました。その意味でこの『時計台』もまた少しずつではありますが、単なる情報誌から研究誌へと脱皮しつつあります。

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No.74

大学図書館長 井上  智

顔の見える図書館をめざして

ビデオ『聖書と関西学院』 絵葉書「聖書コレクション」

このような流れにさらに棹さすためにはどのようなことをしなければならないのでしようか。それは、例えば、『京都大学史料叢書』(1988-)、早稲田大学図書館編『明治期刊行物集成』[マイクロ資料](1988-)、『天理図書館綿屋文庫俳書集成』(1994-)や1971年から刊行が続けられている『天理図書館善本叢書』のような資料集成の刊行です。すでに本大学図書館でも、このような試みはなんどかなされてきました。例えば、第6代図書館長であった東晋太郎を代表とする関西学院灘酒経済史史料編纂会の編集となる『灘酒経済史料集成』全二巻(1950)やマイクロフィルム版『近世の廻漕史料』の一部として収録されている、本大学図書館所蔵の柚木重三教授収集文書である『全国酒造関係史料』(1995)はその例です。また、第16代館長で田中敏弘名誉教授編集のThe Correspondence of John Bates ClarkWritten to Franklin Henry Giddings, 1886-1930, editedby Toshihiro Tanaka (Research in the History ofEconomic Thought and Methodology, AmericanEconomics, ed. by Warren J. Samuels, 2000)も出版されています。

現在進行中のものとしては、与謝野晶子による丹羽安喜子の添削歌稿の翻刻の仕事があります。これは、丹羽安喜子宛与謝野晶子書簡(1934年1月17日)の購入を記念して開催された第11回大学図書館特別展示・学術資料講演会「晶子と安喜子~与謝野晶子と同時代の歌人たち~」を契機としてはじめられ、「晶子と安喜子」の師弟関係を如実に示す貴重な資料を翻刻しようというものです。その資料は、「丹羽記念文庫」の蒐集者であった丹羽安喜子の与謝野晶子による朱入りの校正原稿に加えて、その初版本への箱・表扉・裏扉の画家石井柏亭による挿し絵原画を含むもので、神戸女子大学名誉教授で生田神社宮司である加藤隆久様から寄贈されたものです。この翻刻の仕事は、関西学院大学の2003年度の個人特別研究費を受け、入江春行元大谷女

子大学教授と日本文学研究科の研究員・大学院生のご協力のもと行われています。その翻刻の公刊は、丹羽安喜子研究だけでなく、与謝野晶子研究の発展・深化をもたらすものと確信しております。このように大学図書館は、「オンリー・ワン」である所蔵資料を秘蔵ではなく、公開することによって、また、その資料を研究する国内外の研究者の来館・利用をただ待つだけでなく、大学図書館として自ら研究を組織し、促進することによって、研究機関としての役割をはたし、大学改革の一端を担えるのではないかと考えています。

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No.74

井上  智(いのうえ たくとし)関西学院大学図書館長、経済学部教授。専攻は近代経済思想史で、今は特に近代経済学と日本の近代化、経済学の制度化の問題を扱っている。主な著書に『ジェヴォンズの思想と経済学―科学者から経済学者へ―』、主な編著に、W. Stanley Jevons : CollectedReviews and Obituaries, 2 vols.『近代経済学の開拓者』、『マーシャルと同時代の経済学』等がある。

所蔵資料展開催風景

Toshihiro Tanaka,The Correspondence ofJohn Bates Clark Writtento Franklin Henry Giddings,1886-1930

文箱 与謝野晶子による丹羽安喜子の朱入りの校正原稿他

現在のわたしの研究対象は、ハンブルク生まれの美術史学者アビ・ヴァールブルク(Aby Warburg, 1866-1929)である。著作集の日本語訳が最近になって刊行されはじめたヴァールブルクは、いわゆる「イコノロジー」という美術解釈理論を近代になって創始したことで知られているが、じつは人文学研究者にとって忘れることのできない貴重な図書館をひとつ生み出したことでも有名である。ヴァールブルクの家は代々続く銀行家一族で、アビ

はその長男であった。しかし彼は幼いころに大病を患い、精神面でも家業を継ぐことに不安を感じていたため、13歳のときに1歳年下のマックスと、とんでもない契約を結ぶ。それは、アビが「長子相続権」をマックスに譲る代わりに、今後アビが望む本の代金をすべてマックスが支払うというものであった。その結果アビは、美術や芸術だけではなく、宗教学、心理学、民族学などの研究に必要な文献を経費の心配なしに続々と収集し、その蔵書は6万冊に達した。彼の死後、ナチスによる差し押さえをおそれた後継者たちは、その大部分をイギリスに疎開させる。それが現在のロンドン大学付属ウォーバーグ研究所図書館である。今さら言うまでもないことだが、大学図書館には一

般的な学習支援と専門的な研究支援という2つの使命がある。選書もこの2つの柱を前提にして進められることが多い。ヴァールブルクの蔵書は、どちらかと言えば研究のためのものであったから、大学図書館のあり方を考えるうえで直接の参考にはならないかもしれない。

しかし、この個性的な学者による文献収集は、わたしたちに興味深い事実を示唆してくれる。彼の蔵書はたしかに貴重な資料を多く含んでいて、その意味では高度な研究のためのコレクションだったが、だからといってそれはけっして美術史学という専門分野に偏ったものではなかったのである。この例が物語っているように、これからは「一般教

養書」と「専門書」をすぐに切り分けてしまう発想を見直す必要があるのかもしれない。じつは全面開架の関西学院大学図書館には、この点で、不十分とはいえある程度先進的なところがある。わたしたちの図書館では、たとえ初学者であったとしても、専門的な研究書へのアクセスが保証されている。また、専門研究者にとっても、他分野の概説書や研究書に目を配ることは、狭い分野に閉じこもらないための必須の前提だが、関学の図書館なら書架のあいだを自由に行き来することで専門外の領域の文献に目を配ることができる。ただ、選書や蔵書構成についてはどうだろうか。今後は、わたしたちの図書館が持つこのすぐれた特性を、もっと多くの面で、さらに伸ばしていく必要があるだろう。

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No.74

大学図書館副館長 加藤 哲弘

さらなる開かれた図書館へ

加藤 哲弘(かとう てつひろ)関西学院大学文学部教授、大学図書館副館長。専攻は美学、芸術学。特にイコノロジーをはじめとする19世紀末から20世紀初頭にかけての美術史方法論を研究している。主な編著に『変貌する美術館』、主な編訳に『美術史を語る言葉』『ヴァールブルク著作集』等がある。

ロンドン大学付属ウォーバーグ研究所図書館

ヴァールブルク・ハウスのファサード→ 旧ヴァールブルク文化学図書館(現ハンブルク大学美術史学研究所)

写真2点の出典:Galitz, Robert, Aby M. Warburg. Hamburg, Dölling und Galitz,1995.

大阪駅からJR福知山線で40分の三田市内、その静かな丘陵地帯に総合政策学部(School of Policy Studies:SPS)が1995年に開設された。「人と自然、人と人との共生(ヒューマンエコロジー)」をめざした実践的教育によって、社会に出て即戦力となる人材の育成を目標としている。その研究・教育活動を支援する重要な存在が「関西学院大学神戸三田キャンパス図書メディア館(以下、図書メディア館と言う。)」である(1)。図書メディア館は、大学図書館分室とメディア・フォーラム(2)が同居する建物である。ここにはインターネットに常時接続されたパソコン席だけでなく、海外放送をリアルタイムで聴取するためのテレビブース、教材ビデオを再生するビデオブース、ビデオ編集コーナーなども備えられている。学生は、同じフロアーで、図書資料、ビデオ資料、インターネットなどのマルチメディア情報にアクセス可能である。例えば、数人の学生が手分けして参考図書資料棚から引き出した「経済産業六法」と「環境白書」を開きながら、ビデオ「石油の世紀」と国際会議のインターネット画面を参照し、グループワーク課題「地球環境問題とプリンター用紙使用量節減」に関するレポートをパソコンに向かって執筆することが可能である。こうした実践的研究・教育支援環境は、フランス国

家行政学院(ENA)のサントル・ドック(資料センター)の雰囲気に近い。現役官僚の育成を目的として活動しているENAのサントル・ドックには研修・教育に必要な書誌及びメディア資料が豊富に準備されている。ド・ゴール将軍の本、アデナウア西独首相のラジオ演説テープ、ミッテラン大統領の演説ビデオ、門外不出の政府提出法案検討資料などが学生たちの要請でたちどころに目の前に準備される。新聞、雑誌コーナーにはビデオデッキがサロン風に散在して設置され、談話しながら記録ビデオを見ることができる。そこでは学生たちが前夜の官房長官談話をどう評価すべきかについて意見を交換しており(実にもの静かに語り合うのだが)、そのとなりでは労働組合の政治活動の是非が論じられている。総合政策学部が実践的な人材育成教育を行う上で、

図書メディア館の存在は極めて重要である。世界でいまこの時に何が起こっているのか?国連はどう動こうとしているのか?米国の立場は?日本の小泉首相の談話は?などが思い立ったときにすぐ手に入り、周囲にいる学生と情報を分かち合い、分析を加え合う。議論が空中戦になってしまいそうになったときには図書館参考図書がその場で参照できる。研究論文、雑誌、院生論文集なども同じフロアに収集所蔵されており、参

考になる。インターネット検索とホームページ閲覧も検索エンジンの機能向上と接続サーバ数の増大でこうしたグループワークに不可欠の道具となっている。

21世紀は変革の世紀となろう。サイバーエコノミーに代表されるように将来利益を保障するための圧倒的な量のデータがデジタルネットワークを高速で行き来する。しかし、個々のデータの平均寿命はますます短くなり、データの洪水から必要な情報と知識を紡ぎ出すことはますます困難になる。そのためにも学生がデータと印刷資料をもちより、それらを検討し、グループで議論を闘わせ、からみあった膨大な情報から知識を得るための経験とスキルを積み重ねるための演習空間が重要となる。コンピュータと対話し、ネットワークから瞬時にデータを取り出しながら、グループワークのメンバー間で情報を確認しあい、対話を通じて相互にアイデアを触発しあいながら議論を深めていく。図書メディア館ではこのような未来志向型の実践的

演習空間の拡充が大きな課題となっている。マルチメディア機能(3)の充実に加え、グループワークエリアの拡大、個人読書室の設置(4)、図書棚設置面積の拡大と部屋全体の見通し(ビジビリティ)の確保なども重要な課題である。いずれは、図書メディア館機能と電子図書館機能を融合する方向も検討しなければならない。地域社会との交流も重要である。新宿区中央図書館

は、近隣の大学図書館と相互利用協定を結び、学生と区民の双方にサービス向上を果たしている。全国の地域図書館の一部では、産学官連携強化の方向にその図書館機能を拡充するところも現れてきている。これに呼応して大学図書館においても、ベンチャー企業、地場産業などの要請に応じて専門図書、学術雑誌などの閲覧・貸出しを許すようになってきている。以上のとおり、大学図書館利用のあり方も大きく変

化している。サロン、大型ホールなどの機能を併せ持ち、地域社会に開かれた実践教育支援型の「図書メディア館」が総合政策学部だけでなく大学図書館、ひいては関西学院全体にとっても大きな発展の機会を与えてくれるように思われる。

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No.74

大学図書館副館長 中野 幸紀

中野 幸紀(なかの ゆきのり)関西学院大学総合政策学部教授、大学図書館副館長。工学博士。通商産業省、ENA(国家行政学院)留学、RIIA(王立国際問題研究所)客員研究員、ASEAN-JAPAN Centre,Director of General Affairs、を経て、1997年より現職。共著に『読む事典フランス(5.科学・技術)』(三省堂)、『統合ヨーロッパの焦点(第3章EU機械・電子産業と産業技術政策)』(日本貿易振興会)など。

(1)〈http://wwwksc.ksc.kwansei.ac.jp/library/libhome.htm〉(2)パソコン、ビデオデッキなどが数多く設置されているエリアを指して伝統的にメディア・フォーラムと呼んでいる。(3)DVD、エアチェック(放送記録)、ストリーム系配信情報、3D画像情報、各種デジタルファクト情報など(4)静かにひとりで本を読みたい学生のために読書室を設置するというアイデア。

実践的教育ニーズに応える図書メディア館

本学図書館には、聖書・近代短歌・啓蒙思想史など

学術的に貴重で社会的にも関心の高い図書資料が所蔵

されている。これらを学生の父母および同窓生をはじ

め広く一般に公開することは、本学の教育・研究の一

端を社会にも紹介する有用な機会となる。そこで、東

京オフィス開設ならびに企業懇談会と教育懇談会の東

京開催に合わせて、図書館所蔵資料展を企画した。こ

のように本展の開催は、関西学院の東京進出の方向に

合致するもので、本学の教育研究インフラのひとつで

ある図書館から学外への情報発信の一環ともなった。

展示資料の詳細な解説と資料写真は、図書館報『時

計台』の特集号(No.73)として編集・発行し、来場者

に配布した。この特集号は、大学図書館のウェブサイ

トでも閲覧可能である(http://library.kwansei.ac.jp/

kampo73.pdf)。

本展では、図書資料を下記のように五つのテーマに

分けて紹介した。( )内は展示資料の一部である。

◆「近代短歌~与謝野晶子を中心として~」

(『みだれ髪』初版、書簡、添削原稿)

◆「書物としての聖書」

(グーテンベルク『42行聖書』、初期の日本語訳聖書)

◆「経済学と会計学の世界」

(『国富論』初版・河上肇署名入、『スンマ』第2版)

◆「古文書にみる阪神地域の産業」

(近世灘酒造業関係文書、「兵庫県漁具図解」)

◆「ヴォーリズと関西学院」

(時計台設計図:学院史編纂室所蔵)

これらの図書資料の展示と並行して、会場では「ラ

イブラリートーク」として約30分間の講演会を下記の

とおり合計3

回開催した。

それぞれ専門

の立場から展

示資料の解説

もまじえて、

建学の精神に

も触れながら

関西学院の歩

みと取り組み

などを説明し

た。

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No.74

「近代への扉 ~ 関西学院大学図書館所蔵資料展」が、2003年9月21日(日)から27日(土)まで、丸善・東京日本橋店

4階ギャラリーAで開催された。本学図書館の貴重図書とコレクションを紹介する特別展示は1992年から2002年まで学

内で合計11回開催しているが、学外での展示会は初めてである。

会期中の来場者は合計1550名と、台風等で雨模様が続いたにもかかわらず多くの人に来場していただいた。来場者全

員にアンケートをお願いしたところ回答数は615件で回収率は40%であった 

関西学院大学図書館所蔵資料展「近代への扉」開催報告

大学図書館運営課

展示会場風景

丸善日本橋店正面外壁

◆顔のみえる大学図書館をめざして

~特別文庫を中心に~

井上 智 大学図書館長(9月21日午後2時~)

◆キリスト教が拓いた日本の近代文化

田淵 結 大学宗教主事(9月23日午後2時~)

◆関西学院の創立から未来へ

平松一夫 学長(9月26日午後6時30分~)

会場では、大学図書館が企画・制作した『聖書と関

西学院』(約12分)を、ライブラリートークの時間以外

に上映した。また、来場者アンケートに回答していた

だいたお礼に、大学図書館所蔵「聖書コレクション」

の絵葉書セットをお渡しした。さらに、大学案内「空

の翼」と「学院案内」を配布するなど、関西学院の東

京での広報活動にも力を入れた。

なお、ライブラリートークの内容は録音し音声CD

を製作して、上映した『聖書と関西学院』のDVDと

ともに図書館に所蔵している。これらは、視

聴覚資料として、西宮上ケ原キャンパス大学

図書館と神戸三田キャンパス図書メディア館で

視聴することができる。

本展の開催を広報するために、出版社と報

道機関に対して丸善からパブリシティを送付

し、『週刊新潮』(9月25日号)、共同通信(9月

19日付記事配信)と東京日本橋の地元誌など

で取り上げられた。丸善の広報誌『学鐙』(9

月号)にも開催案内を載せた。また、「読売新

聞」(9月24日付夕刊)には5段広告を掲載し、

その中で東京オフィスの開設も合わせて紹介した。一

方、ポスターとちらしを、東京23区を中心とした大学

図書館・公立図書館・美術館・博物館および関連施設

に本学図書館から送付して、掲示と配布をお願いした。

さらに、関西学院同窓会と同東京支部にも広報の協力

を依頼した。

アンケートの集計結果によると、これらの広報媒体

を見て本展を知った人は回答者の40%以上であった。

そして、来場者の半数以上が来店して知った、または

店頭の行事案内を見たなどであり、丸善日本橋店とい

う会場に恵まれた効果も大きかった。

また、アンケート回答者の90%以上が関東1都6県の

居住者であり、同じく80%以上が関西学院の卒業生・

父母・学生・生徒以外の一般の方々であった。このよ

うに、多くの人が集中する東京(関東)で開催した成

果は非常に大きいものである。さらに、様々な専門家

に本学図書館所蔵の図書資料を直接見ていただく有意

義な機会ともなった。一例として、15世紀聖書に関し

ては本号に別掲の調査研究がすすめられるなど新たな

成果が生まれている。

この所蔵資料展の開催にあたり、丸善株式会社、株

式会社紀伊國屋書店、株式会社雄松堂書店、株式会社

図書館流通センター、日本ファイリング株式会社(順

不同)の協賛をいただきました。また、関西学院同窓

会、同後援会、同高等部育友会、同中学部PTAの後

援を得ました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。

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No.74

ライブラリートーク風景(平松学長)

「近代への扉」ポスター

(ケース1)売れ筋商品ランキング-出力結果 最新週のランキング 期間:6/16-6/22週 商品分類:チョコレート(191) 1.ネスレCキットカットミニ17枚 2.明治フランノワール5本×3 3.明治アーモンド40周年記念期間限定増量130g 4.明治マカダミアチョコ増量12粒 5.ロッテトッポチョコレート2袋…(日経テレコン21、POSランキング)

(ケース2)「需要創造 光る発想常識破る セブンイレブン 甘さ捨てたアイス」(『日経流通新聞

(Nikkei Marketing Journal)』、7月1日(火曜日))

「今、あなたがチョコレートのブランド・マーケター

だとしたら、ケース1の商品ランキング・データをど

う読みますか?」「今、あなたがアイスクリームを担当

するメーカーのプロダクト・マネージャーだとしたら、

ケース2のようなアイスクリームの発売を決定します

か?その理由は何ですか?」。こんな問いかけを春学期

の3回生の研究演習では、毎回おこなっています。ケー

ス1・ケース2の情報も共に、学生が図書館から自分

たちの関心に基づいて検索してきたものです。同様の

情報を1年生の商学演習の学生も検索することができ

ます。

「関西の学生は情報感度が悪すぎる!」。非常に手厳

しいご指摘を企業の方々から頂くことがここ数年とて

も増えてきました。もちろん、我々の関西学院の学生

もこのなかに含まれています。充実

した教育カリキュラムを誇る我が関

西学院大学に欠けるもの、これはご指摘の通り“情報

感度”の育成ではないかと実感します。確かに関西の

学生は、関東それも東京にある大学の学生に比べると、

情報発信源からの距離や情報の密度といった点で大き

な不利を被ることは致し方ないことです。ただし、情

報にはノイズといったものも多々あるわけでして、こ

うした量だけが問題なのではなく、質のある情報をい

かに入手できるかを問わなくてはならないと思います。

こんな問題意識もありまして、関東の学生に引けを

取らない“情報感度”を何とか身につけさせてあげた

いと考えています。その一つとして、情報入手スキル

の獲得を目指して、“情報館である図書館”が春先に開

いているオリエンテーションでは、毎年「日経テレコ

ン21」の利用方法についての説明をお願いしています。上記2つのケースにあるデータは、「日経テレコン21」によるものです。ケース1のデータは、いわゆる

「POS」(販売時点)データを集計したもので、これを利用すると多様な商品のシェア・ランキングが一目で

わかります(現場のマーケターの中には、新商品の流

通コントロールがうまくいかずに発売予定日の前日に

新商品が販売されてしまい、なんと発売当日のこのデー

タを一番恐れている方も多いようです!)。この機能は

昨年のオリエンテーションで、担当の高島さんから教

えて頂いたものです。ケース2のデータは、いわゆる

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No.74

各種オンライン・データベースの導入により、索引・抄録などの二次情報だけでなく、新聞記事やオンライン・ジャーナルの全文が検索・閲覧できる環境が整備されてきている。しかし、まだそれらの電子媒体資料が大学図書館利用者に十分普及しているとは言い難い。そこで、両キャンパスの図書館では、ゼミ対象のオリエンテーションの場でそのゼミのテーマや学生の研究課題に対応したオンライン・データベースの紹介と検索指導を行い、それらのデータベースの利用促進を目指している。今回このオリエンテーションに参加されたゼミの指導教員の中から2名の先生方に、ゼミでのデータベース活用事例をご報告いただいた。

学術情報データベースの導入と利用促進-ゼミ単位のオリエンテーションとその活用事例-

「情報感度は図書館度!:戦略的情報館としての図書館」商学部助教授 新倉 貴士

1.西宮上ケ原キャンパス大学図書館

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No.74

①参加ゼミ年々増加中

西宮上ケ原キャンパス大学図書館では、個人向けや

ゼミ対象に14種類もの利用者オリエンテーションを企画し、2003年度はのべ230回実施して4,700人が参加した。その中でも、ゼミ対象の「文献の探し方講習会」は図

書館レファレンス担当者が最も力を入れているオリエ

ンテーションで、参加ゼミ数は2002年度の66から2003年度は87へと増加した。この「文献の探し方講習会」は、毎年3月に西宮上ケ原キャンパスの6学部の全ゼミ指導教授宛に案内を出して申込を募り、4月中旬から通年で実施している。通常はゼミ1コマ90分を充てて、ゼミのテーマに関連した文献・データベースの紹介や検

索指導をレファレンス担当者が行っている。事前にゼ

ミ指導教員から要望などのヒヤリングを行っているた

め、実施後のアンケートでは教員からおおむね高い評

価を得ており、毎年申込がある「リピーター」ゼミも

確実に増えている。

②オリエンテーション時間内でのデータベース紹介

90分の「文献の探し方講習会」では、レファレンス担当者が作成したレジュメや文献リストに基づいて説

明し、図書館内パソコン室でデータベースの検索デモ

や実習を行っている。主題分野に限定されない

NICHIGAIの「BOOKPLUS」や「MAGAZINEPLUS」のような索引データベースや外国語文献検索に有効な

「FirstSearch」がよく用いられるため、オリエンテーション用に複数のIDを用意して、1~3人で1台のパソコンを割り当てて、実際に検索させている。このような

自分で操作できる環境で、そのゼミのテーマに対応し

たキーワードを使っての実習は学生たちの興味を喚起

するもので、毎回熱心にキーボード操作をする学生た

ちの姿が見られる。また、ゼミのテーマによっては、

経済・商学部のゼミでは「日経テレコン21」、法律学科では「LEX/DB インターネット TKC法律情報データベース」、英文学科では「 MLA InternationalBibliography」などの特定データベースを中心に据えることも多い。

③参加者にデータベースの利用が浸透

「文献の探し方講習会」で積極的に利用できるデー

タベースを紹介した効果は大きく、後日ゼミ指導教員

が検索を必要とするような課題を出したり、学生が自

主的にデータベースで文献検索をしたり、という形で

利用が浸透している。本学に所蔵していない文献を入

手するために検索結果のプリントアウトを持参して、

レファレンス・カウンターで相互利用の依頼手続きを

する学生も目立ってきた。契約しているデータベース

への本学からのアクセス数も増大して、時に契約ID数以上のアクセスが集中して「つながらない」という状

態も発生するほどである。ほとんどのデータベースが

学内LAN接続端末から図書館ホームページを経由して自由に利用できるため、非来館型サービスも充実して

きたと言えるだろう。

④今後の方向性

高額なデータベースを契約しても使われなければ何

も価値がない。大学図書館としては利用者に積極的に

データベースの利便性をアピールして、一人でも多く

の利用者に使ってもらうよう働きかけている。このゼ

ミ対象の「文献の探し方講習会」は絶好の機会である。

今後もさらにこのオリエンテーションをゼミ担当教員

に広く案内し、内容のある講習会を実施し、「リピーター」

ゼミを増やしていくよう、担当者一同励んで行きたい。

「記事の検索」で、キーワードを幾つか設定して関連記

事の一覧を検索させ、入手させたものです。

このような情報入手スキルは、卒業後もビジネス・

プランや企画書の作成に必須のものとなります。講義

を通じて同じ水準の教育が提供できるとするならば、

あとは“情報感度”の差が問題となるに違いありませ

ん。この“情報感度”は、情報館としての図書館での

データ利用度である“図書館度”によって養うことが

できると思います。図書の貸し出しだけをイメージし

てしまう図書館から脱して、“情報感度”を育成する

“戦略的情報館としての図書館”づくりを、一度、全学

的に検討してはいかがでしょうか。

「ゼミ対象オリエンテーションにおけるデータベース検索指導」大学図書館利用サービス課業務主担当 魚住 英子

私が学部生だった頃、図書館は「遠い存在」でした。当時は開架式ではなく、本を探し当てるのが今より困難なこともありましたが、自分と図書館の結びつきが理解できなかったことも大きな理由です。それが、1982年にアメリカに留学して以来、「図書館と私」はとても仲良しになりました。それは、「仲良しにならざるを得ない」というほうがあたっているかもしれません。一日のうちの多くの時間を図書館で過ごし、分からないことがあれば図書館の職員に尋ねてアドバイスをもらい、自分の知りたいことを探し当てる楽しみを知りました。自分では、このキーワードでしか探せないと思い込んでいたのが、図書館の職員の方の知識とアドバイスを得て他のキーワードを使用してみたところ、ほしかった資料を手に入れられたときは、本当に喜びを感じました。そのような訳で、1995年に総合政策学部に着任して

からも、学生さんたちに、図書館で資料を探し出すことの大切さと楽しさを知ってもらおうと努力しています。三田の総合政策学部は宿題の量の多さとキャンパスの規模の小ささが幸いしてか、学生さんはよく図書館を利用します。そして、図書館の職員の方々も学生の資料探しに快く手を貸してくださいます。もう数年前のことなのですが、ある学生がちょっと嫌な出来事があり沈んだ気分で図書館に行ったところ、たまたま図書館にお願いしていた本が入った日であり、職員の方がその学生を覚えてくださっていて、声をかけられたとのことでした。そしてこの学生はその時のことをこのように語りました。「本当は本なんか読みたくない気分だったのに、本をうけとって帰りのバスに乗ったんです。それで、何気なくぱらぱら本をめくっていくと、とてもよい本で、暗かった気分が少し晴れたんです。」このような図書館の効用も起こっています。さて、本題のデータベース使用の話に入ります。現

在私が学生さんに薦めているのは、とにかく、自分の研究課題が決まればその課題を追及するのに、必要なキーワードを最低3から4個考え、そのキーワードをてがかりにして、まず、図書館のデータベースで、「どれぐらいの量の書物や資料が存在するか」「(分量が多すぎれば)タイトルからどの書物を読んでみるかの見当をつけ、それらを手に入れ、ざっと目を通してみること」です。研究演習I(3年生)の進級論文では、うちのゼミで「文献ノート」と読んでいる文献レビューとそのまとめの提出が課題となっています。そのために、学生たちがもっとも活用するのが、日本語の論文に関しては「MAGAZINEPLUS」、英語論文では「SocialWork Abstracts」です。うちのゼミは、心理、教育、福祉、といったような領域に興味を持つ学生が多いので、英語の論文を読むことを薦めています。

外国語のデータベースを使うのは最初は抵抗があるようですが、いくつかのテクニックを覚えれば、後はそう難しいことではありません。一番の難関が「英語のキーワード」を考えだすことでしょう。この部分に関しては、やはりある程度知識を持っている先輩や教員の知恵を借りることもお薦めです。Social WorkAbstractsで、実際に学生さんがどのような形で卒業論文に役立つ論文を集めたかをご紹介しましょう。最近うちのゼミの学生が興味を持つことが多いテーマに「児童虐待」があります。この問題が日本で取り上げられ始めたのは、まだそれほど昔のことではありませんでしたが、アメリカでは1980年代に社会福祉の大きな課題となっていました。そのため、特にその問題解決プログラムといったことについては、多くの文献が存在します。実際にSocial Work Abstractsで、ChildAbuse という用語をタイトルに含めている論文の検索を始めると、膨大な数の論文があることがわかります。昨年やってみたところ、1977年から2002年までの間に300の論文が見つかりました。このデータベースの良いところは、アブストラクトといって、論文の要約がみられることです。そこで、300ぐらいなら、要約にざっと目を通して自分が興味を持つ領域でどのような研究がすでになされたのかをチェックして、その後、どれを手に入れたいかを決定することができます。あるいは、虐待を受けた子供たちに対してどのようなプログラムがあるかに興味があるなら、もう一つのキーワード(例:Treatment, Programなど)を使ってさらに論文の数を絞り込みます。このようにして、うちのゼミでは、学生さんたちが、

海外の研究にふれるためにデータベースを活用しています。データベースの使用、そしてその後実際に論文を入手するまでの手続きなど、実際に練習してみなければなかなか億劫なものです。そこで、進級論文提出前にゼミでワークショップを開くのですが、やはり一回やそこら教員の私がやっても分からない部分を積み残したままになる可能性が多いらしく、進級論文提出前に、図書館のレファレンスに列を作るという事態を発生させてしまいました。そんな状況を改善すべく、今年からは、図書館の職員の方のご好意でゼミへの出前ワークショップをしていただきました。入学したときに図書館の説明は聞いているものの、実際に自分が必要としていないときに聞いていた知識は応用が利きにくいものです。目の前に課題があるときであれば、知識をすぐさま応用できるので、データベースの利用法や、論文入手方法が生きた知識になりやすいと思います。

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No.74

「外国語論文を見つける楽しさ」総合政策学部教授 渡部 律子

2.神戸三田キャンパス図書メディア館

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No.74

①オリエンテーションの現状と課題学生がレポートや論文を作成するにあたり、効率よ

くかつ幅広く情報を検索することは必要不可欠である。神戸三田キャンパス図書メディア館では、新入生オリエンテーションの他にも、学生が必要とするタイミングに合わせて各種オリエンテーションを実施している。総合政策学部では、1年生必修の授業であるコン

ピュータ演習の授業時間を使って、OPACの利用法を中心として、図書メディア館資料の活用法やホームページのアピールを行っている。また、博士課程前期1年目の学生を対象として、MAGAZINEPLUSやFirstSearchなど、広範に検索できる和洋のオンライン・データベースの利用や、オンライン複写申し込みサービス、E-mailレファレンスの案内等を行っている。理工学部では、卒業研究を控えた学生を対象として、

4~5月に研究室単位のガイダンスを行っている。2003年度は8研究室から申し込みがあった。上述のような基礎的なデータベースオリエンテーションと、カウンターでの個別対応により、FirstSearch、MAGAZINEPLUS、新聞記事検索、日経BP記事検索システム(KSCでのみ利用可能)、サイエンスダイレクトなど、包括的な内容を扱ったデータベース、オンライン・ジャーナルや教員からの紹介があるものはよく利用されている。しかし一方で、各分野の専門的なデータベースは利

用者が限られているうえ、三年生の後半から大学院にかけて本格的に利用し始めるため、ガイダンスを行う機会を持ちにくいという問題がある。

②授業時間におけるゼミ対象データベースガイダンス上記の問題を解決する方法として、今年度図書メディア館では、特に文献利用の多いゼミの3年生、大学院生の演習の時間1コマを使ってガイダンスを実施した。また、少しでも早く学生に情報収集方法を身につけ

させて欲しいという教員の強い要望により、1年生で

実施した基礎ゼミもある。3年生のゼミでは、ソーシャルワーク、心理学、社会

学等を扱うゼミであるため、和雑誌のデータベースとしてMAGAZINEPLUS、NDL-OPAC、NACSIS-IRの雑誌記事索引、また洋雑誌ではSocial Work Abstracts、FirstSearch、Ingentaを利用し、ゼミのテーマに合ったキーワードで検索する演習を行った。また文献を検索した後、実際に文献を入手するまでに必要なステップを知らない学生が多かったため、キャンパス間複写、学外複写の申し込み用紙の記入例などを用意してその手順を説明した。さらに、LexisNexisTMAcademic、ファクティバ・ドットコムなど、外国語新聞情報の入手方法なども紹介した。大学院生対象ではさらに専門的なデータベースの検

索演習に加え、SAGE Full-Text Collection、SociologicalCollectionなどのオンライン・ジャーナルによる文献入手も行った。実施後のアンケートではオンライン・ジャーナルというものを知らなかったという声もあり、効果のあるオリエンテーションを実施できたものと思う。

③データベースガイダンスの今後の展望3年生と大学院生に実施したオリエンテーションでは

パワーポイントで教材を準備し、それをweb server上に置いた。当日個人のフォルダにダウンロードして実施したため、後日復習することができる。また、例題の解法と検索のポイントを示した後、演習問題を解く形の教材を使用することにより、効率的かつ適切な検索方法を確認してもらうことができた。データベースが専門的になり、多様になるほど、そ

れぞれのデータベースの特徴を把握し、使いこなすことは困難になっていく。学生や教職員のニーズに応じて図書館員が適切にガイダンスしていくことは、非常に重要であると考え、今後もこのゼミ対象オリエンテーションを一層発展させていきたい。

「情報収集スキルアップガイダンス」神戸三田キャンパス図書メディア館 八木 香名子

J.C.C.Newton賞の概要大学図書館では「知的交流・創造の場としての大学

図書館」の理念にもとづき、2000年度にJ.C.C.Newton賞を創設した。賞の名称は初代図書館長J.C.C.Newton博士にちなんで命名されたものである。4年目の2003年度は本学図書館カードを有する者で大

学、大学院、高等部、中学部の学生・生徒、卒業生および一般利用者を対象として、「色」をテーマに論文、エッセイ、創作などさまざまな形式の「作品」を募集した。応募作品は、学部学生18点、大学院学生4点、高等部

生徒4点、卒業生2点、その他1点の計29点で、論文・提言、エッセイ、ノンジャンル(創作)と多彩な内容であった。図書館内での第1、2次審査を経て、平松一夫学長、井上 智大学図書館長、奥野卓司社会学部教授、藤田太寅総合政策学部教授、古森勲広報室長による最終審査が1月13日に行われた。その結果、創設4年目にして初めての最優秀賞作品が

決定した。あわせて優秀賞に2作品が選ばれた。表彰式は1月28日、大学図書館館長室で行われ、賞状

と副賞が贈られた。最優秀賞の受賞作品は本図書館報に、また、全受賞作品は大学図書館のホームページ(http://library.kwansei.ac.jp/)に全文掲載されている。

審査員井上 智(いのうえ たくとし)大学図書館長 経済学部教授

平松一夫(ひらまつ かずお) 学長 商学部教授

奥野卓司(おくの たくじ) 社会学部教授

藤田太寅(ふじた たかのぶ) 総合政策学部教授 

古森 勲(ふるもり いさお) 広報室長

審査員講評ここでまず報告したいのは、第4回目となった今回、

初めて最優秀賞が選ばれたことである。この賞が創設された2000年度の第1回(テーマは「知」)、2001年度の第2回(同「つくる」)、昨年度の第3回(同「よむ」)と続く過去の歴史のなかでは一度も最優秀賞の受賞作品が現れなかった。応募数が減少した今回も、もしかしたらまたと危惧されていただけに、審査員、事務局ともども、たいへん喜ばしく思っている。応募は、理工学部、言語コミュニケーション文化研

究科を除く、ほぼすべての学部や研究科から寄せられた。また、今回も高等部や同窓生から多くの優秀な作品の応募があった。応募数が減少したことには、審査

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No.74

第4回 J.C.C. Newton賞

2003年度募集要領■テーマ「色」・・・色彩認知、色の象徴性、流行色や好きな色など、色をめぐるテーマを自由に選び、本格的な学術論文や、新鮮な感覚のエッセイ、あるいは、既成概念にとらわれずに確かなメッセージを伝えるノンジャンル作品などを募集します。■原稿規程日本語5,000~6,000字■応募資格本学図書館カードを有する者。(卒業生、公開利用者を含む。ただし本学教職員および本学内関連団体職員を除く)■表  彰J.C.C.Newton賞最優秀賞 1名     賞状ならびに副賞(20万円)優秀賞  2名     賞状ならびに副賞(5万円)

最優秀賞作品は館報とホームページ、優秀賞作品はホームページに掲載します。■募集期間2003年10月1日~10月31日

J.C.C.Newton博士(1848-1931)1848年米国南カロライナ

州に生まれ、メソヂスト教会南部宣教師として1888年に来日し、翌年に新設された関西学院に赴任した。その後初代神学部長、初代および第3代図書館長を歴任、1916年には吉岡院長のあとを受けて、第3代院長となるなど創設期の学院と苦楽をともにされた。博士の家庭は常に学生や協力者に開放され、そ

の「神のような生活と精魂を傾けた教育」によって人々に偉大な感化を与え、終生、愛と奉仕の生活を続け1931年に永眠された。

に充分な時間を充てるために、今回から締切を1ヵ月早めたことが関係しているのかもしれない。締切日を週明けにする配慮もあればよかった。しかし、そのような不利な状況があったにもかかわらず

29点の応募作品には、色彩を、環境科学や生理学、文学や絵画に結びつけて精密に論じたり、日常生活のなかの新鮮な色彩感覚を文字で描き出したりする多様な試みが見られ、これまでに劣らず、質の高いすぐれた作品が目立った。作品の選考は、昨年とほぼ同様に、図書館内に5つの

チームをつくり、5つの群に分けられた作品をそれぞれが2群ずつ読んで、事前に設定された基準に従って評価するかたちで行われた。一方、副館長を中心に全作品を読むチームを別途に設け、各チームからの評価を参考に8点の作品を授賞候補とした。できるだけ多くの図書館員の主体的な関与を通して、幅広い世代の価値観を評価に反映させるためである。この8作品は、前述の審査員のもとで最終審査にかけられ、1作品が最優秀賞に、2作品が優秀賞に選ばれた。最優秀賞に選ばれた宮本さんの「黄金のエルサレム」

は、多彩な民族、宗教、価値観がぶつかり合うなかで今も黄金に輝く都市エルサレムを、自らの経験をもと

に優れた筆致で描き出したエッセイである。特定の政治的立場に偏らないための工夫がさらに求められはするものの、重いテーマに対する理解力、色彩感覚の鋭さ、文章表現能力の高さの点で最優秀にふさわしいと審査員全員に評価された。優秀賞の2点も、それぞれの個性が光っている。第1回に続いて2度目の受賞となる山本さんの論文は、光と色をめぐる意外な逆説的論点に着目したものだ。また辻さんのエッセイには、若い感覚が、しかも高度な言葉の操作によって表現されている。受賞作品からも明らかなように、審査の段階で強く求められるのは、テーマへの適合性、明確な主張があること、タイトルへの工夫、論文らしさやエッセイらしさ、社会的問題意識などである。さらに審査員は「心に響く言葉」「文章の練り上げ」などを期待している。次回の応募の際に参考にしていただければ幸いである。2004年度のテーマは「新しさ」である。今回に続く2

度目の最優秀賞を目指して、多くの図書館利用者が応募されることを願っている。

(肩書きはすべて2004年2月現在)

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最優秀賞黄金のエルサレム

神学部4年宮本 ゆき

神学部に編入して1年が過ぎ、ひたすら卒業に必要な科目に追われる毎日に息がつまりそうだった。2年目、夏休みだけは「やりたい勉強」をやることにした。ちょうどニュートン賞の募集文に「ジャンルにこだわらず自由な発想の作品」とあり、とりあえずの目標にぴったりだった。盛夏のひっそりした図書館で文献を掘り出しては読む、自己満足の日々に浸った。受賞の知らせに、あのとき私は本当に宝島探検に行っていたんだ、と気づかされた。

優 秀 賞色彩の再発見と色彩論の再構築序説-電子メディア時代の色彩における

アウラ喪失とその復権-

総合政策研究科博士課程後期課程3年山本 龍彦

今回の受賞は2回目であり、また私の本学における最終年でもあった為に、感慨ひとしおである。「色」という多義的で重層的なテーマに対し、アイディアの創出には苦労をしたものの、書きはじめると一瀉千里に筆がすすめられたことは、5年間にわたる本学での知的トレーニングの賜である。諸先生の学恩に深く感謝するとともに、私の「知」の孵化器であった図書館のスタッフのみなさまに厚くお礼を申し述べて、受賞と巣立ちの言葉としたい。

優 秀 賞曼 珠 紗 華

商学部2年辻 千絵美

私の作品を優秀賞に選んでいただけましたこと、大変うれしく思っております。以前から1つのテーマで文章を書いてみたいと思っていたことが率直な応募動機です。人文演習を担当してくださった先生の紹介により、ニュートン賞を知りました。まだまだ未熟であると感じながらも、どなたかに私の文章を読んでいただきたいと思い応募いたしました。私に自信を与えてくださったことを再度感謝いたします。誠にありがとうございました。

J.C.C. Newton賞 最優秀賞及び優秀賞

黄金の糸……黄金の糸のこの端を/ ただひたすらに巻きまろめて行けば/

エルサレムの聖域に立つ/ 天国の門へやがて君は至り着く― W. ブレイク 「ヂエルーサレム 序詩」(1)

映画「シンドラーのリスト」はほぼ全編がモノクロームの映像だ。第二次世界大戦中のポーランドでナチスの迫害によって死と隣り合わせの日々を送っていたユダヤ人と、そのうちの1200人を救出したオスカー・シンドラーというドイツ人の物語である。実話にもとづくこの作品に、監督のスティーブン・スピルバーグは数箇所だけカラーを使っている。まず冒頭のタイトル。背景で、あるユダヤ人の家庭で安息日のためにキャンドルが灯され、タイトルが消えるとともにキャンドルの周辺から色が消え、モノクロームの映像が淡々と切りつめた語り口で物語を始める。次は、ゲットーが解体されることになり「無用」となったユダヤ人が虐殺されていくのを見つめる少女の赤い服。原作によるとゲニアという3歳の幼女で、ナチスの親衛隊に捕まり広場に集められていた人々の中から、赤という目立つ色をまとっているのに「まるで海千山千の相場師のような冷静さ」(2)でゆっくりと誰にも気づかれずに抜け出すという離れ業もやってのける。極限の状況の只中におかれた生命、絶望しつつ生へ向かおうとする人間の意志、そんな「赤」と思えた。そしてエピローグ、戦後のエルサレムが鮮やかなカ

ラーで映し出される。旧市街を囲む城壁の南側、シオン門の近くにあるキリスト教徒墓地で、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが彼の墓前に小さな石を積み重ねていた。ユダヤ人にとって石は不変不滅の象徴で、石を積むという行為は、旧約聖書の中で信仰や希望と結びついて語られている。しかも、後から述べるように、エルサレムは石でできた都でもある。そしてこのシーンでは「黄金のエルサレム」という歌が流される。三拍子で軽快だが短調で、無伴奏の混声合唱によるメロディはどこかしらノスタルジックだ。

丘の空気はワインのように澄み、松の香りが夕べの鐘の音と共に漂ってくる。木も石も深いまどろみの中で、孤独な町がたっている、その懐に壁を抱いて。(リフレイン)黄金のエルサレム、銅色と光の、あなたの歌のひとつひとつにあわせて、私は竪琴になろう(3)。

リフレインの“イェルシャライム シェル ザハブ”(ヘブライ語で“黄金のエルサレム”)は、私自身のモ

ノクロームのような思い出から聞こえてくる声と重なる。それは、高校時代、留学先のアメリカでユダヤ人の友人に誘われ、はじめてユダヤ教のシナゴーグ(教会堂)に行ったときのことである。安息日、つまり金曜日の礼拝で、夕方のせいか馴染みのあったキリスト教の礼拝に比べると全体にひそやかな雰囲気があった。ほとんど英語だったが、何が祈られ、語られ、歌われたのか当時の私の英語力ではさっぱりだった。ただ、簡素な礼拝堂に何度も「エルサレムに帰ろう」、「シオン(エルサレム)を忘れまい」という詠唱が響いた。集っていた100人あまりの男女の大半はエルサレムに行ったことがないと後から知ったのだが、穏やかながら確信と決意がこもった和声には心を揺さぶられるインパクトがあった。これはどういう人々なのだろう、エルサレムとは何だろう、と怪訝さと一種の畏敬を覚えた私は、今からふり返るとそのとき黄金の糸の端を手にしていたのだ。

黄金のエルサレムあんなに近く、あんなに遠いエルサレム。それは生きており、もうじき近づくことができる。

― E. ヴィーゼル『エルサレムの乞食』(4)

イスラエルの国民的作詞・作曲家、ナオミ・シェメルによる「黄金のエルサレム」がはじめて歌われたのは1967年5月15日、イスラエル独立記念日の祝典である。独立から19年、2度の中東戦争を経て、国家として本当に立ち行けるのかどうか、まだだれもが不安を抱えていた時代だった。しかも、エルサレムの核、すなわち城壁に囲まれた旧市街は当時ヨルダン領だったために、その中にあるユダヤ人の聖地である「嘆きの壁」、すなわち第二神殿の西の壁の遺構にユダヤ人は入れなかった。目の前にありながら近づくことのできないその壁への深い渇望と強い憧れを込めたこの歌を、祝典に集っていた市民は熱狂的なアンコールで迎え、その場で覚えたリフレインを大合唱した(5)。この翌日、エジプトはチラン海峡を封鎖し、臨戦体

勢に入ったことを表明。近隣のアラブ諸国がエジプト支援にまわるなか、小さなイスラエルが壊滅させられるのは時間の問題だと見られた。しかし、6月5日に始まった戦闘でいち早く制空権を獲得したイスラエルは、東エルサレムはおろか、西岸、ガザ、そしてシナイ半島まで一挙に占領してしまった。ユダヤ人が“神の創造の6日間”になぞらえて“6日戦争”と呼ぶこの第三次中東戦争の3日目、22時間の戦闘のすえにイスラエル

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第4回 J.C.C.Newton賞最優秀賞

黄金のエルサレム神学部4年 宮本 ゆき

軍は旧市街に侵攻した。従軍主席ラビが片手に聖書の巻物、片手に角笛をもって「嘆きの壁」へとひた走った。壁の前で角笛が吹きならされると、自らを無神論者だと思っていた将校や兵士たちさえ「人間とは思えない異常な力」に全身を捉えられ、ある者は身動きできず、ある者は壁にすがりつき、互いに感涙にむせんだという(6)。「黄金のエルサレム」は何度も繰り返して歌われ、エルサレムの運命を予告した歌としてやがてエルサレムの市歌となる。とはいえ、それは高らかな戦勝の曲、勇ましい凱旋

の歌ではない。歌詞のはじまりは紀元前6世紀にバビロンに滅ぼされ、住民が捕囚としてバビロンに連れ去られた後のエルサレムを「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が」(哀歌1章1節)と悲しむ旧約聖書の詩に重ねてある。また、リフレインのむすび、「竪琴になろう」も、捕囚の地で“歌え”と言われたが歌えず、傍らの柳の木に竪琴をかけて嘆く詩(詩篇137)を思わせる。ほかにもイザヤ書や詩篇からとられたエルサレムのイメージや表象、ユダヤ人の離散、異郷での迫害が、争いに蹂躙されつづけたエルサレムへの思慕として全編に読み込まれている。そしてなによりも、この歌を歌うものも聞くものも、日夜の祈りでエルサレムを口にしながら散っていった幾多の生命を思わずにはいられない。フランクルが『夜と霧』で述べているように「すなわち最もよき人々は帰ってこなかった」のだ(7)。だから「黄金のエルサレム」は現代のイスラエルの哀歌である。

黄金の石色彩というものは、ほとんど音楽と同じくらいに私たちを高みへとひきあげてくれるものである。

― E. マール 『ヨーロッパのキリスト教美術』(8)

ところで、「黄金のエルサレム」は決して単なるレトリックではない。夜明け前、この町の東端にある「オリーブ山」に登ってみる。海抜800mの山頂の向こう側には、日中ならユダの荒れ野がうねり下り海抜マイナス400mの死海に至っているのが見える。まだ暗闇に沈んでいるその方角からバラ色の征矢が天空に走ったら、ふり返って街灯におぼろなエルサレム市に向き合う。モスクの尖塔やドームが、教会の鐘楼が、はじめは赤銅に、やがて金色にきらめき出す。きらめきは刻々と広がりつながり、旧市街を囲む城壁が黄金の冠さながらに輝く。集まってきた巡礼や観光客が言葉もなく魅了されている。彼ら相手のみやげ物売りや観光用のラクダを連れたベドウィンも、見慣れているであろうこの光景にじっと目を注いでいる。やがてエルサレム全体が巨大な黄金の鉢となって輝きわたると、ショーは始まったときと同じくらい唐突に終わる。私たち日本人は朝日のつくりだす美しい景色の見ら

れるところを大切にしてきた。「嵐のあとなど、日の出

の時刻が近づいて澄んだ東空に漂う雲が次第に赤く染まってゆくとき、いかなる名画も足元に及ばぬほどの見事な色彩が展開されることがある。しかし太陽が頭を出すと急速にすべての色彩は消え、平凡な朝の風景が始まり、太陽はもう眩しすぎて直視はできなくなる」(9)。夏の間、エルサレム上空に雲を認めることはめった

にない。だから、ここでは朝の斜光が描き出す、いかなる名画にも優る色彩とは雲ではなく石がキャンバスだ。そもそもエルサレムは石灰岩からなるユダ丘陵に位置している。その上、建造物は全て外壁にこの「エルサレム石」を使うことが英国統治時代に決められて以来、今でも市の条例となっている(10)(いうまでもなく、有名な金のドームをはじめ金や銅で葺いた屋根を持つ建築はそれ以前のものである)。この石は、切り出したときは柔らかく細工しやすいが、時と共に強度が増し、色も内部の鉄分が酸化して、象牙色、ベージュ、ピンク、薄紫に変化する。湿度の極端に低く澄んだ空気を通し、朝日はそれらの石をバラエティに富んだ黄金、すなわち輝きそのものに変える。今日では市内のいたる所に緑の草木が計画的に植えられているが、もともとのエルサレムを特徴づけていた景色は「石ころだらけの畑、石がごつごつした山、石が剥き出しの峡谷。石の屋根、石の塔、おそろしく分厚い石の壁」(11)

で、それはエルサレムの中心街を少し離れれば今もそのとおりだ。そして、朝日が見せてくれる黄金の都が消え去った後のエルサレムは、目もくらむ太陽の光の下、オリーブ山の上からはオパールのグラデーションからなる丘と家屋の集まりで、オリーブの葉まで銀色にまばゆい。

黄金の鉢底エルサレムは敬虔な者も精神異常者も、純真無垢な巡礼も狂人も、……おなじようにひきつける。

- A. エロン 『エルサレム』(12)

エルサレムを「その底にサソリの蠢く黄金の鉢」と形容したアメリカ人外交官がいたという(13)。たしかに、ここは辣腕の政治家、外交官、軍人、そして聖職者を悩みに悩ませてきた。ここでは2つの民族と3つの唯一神宗教が反応しあいながら強烈なエネルギーを噴出している。そしてその引力に世界中の人々が引き寄せられていることは、一介の旅行者にもよくわかる。遠景だと白っぽく見える街並みは、一旦その中に降り立てば、強烈な日光の照り返す場所と、建物やアーケードの作り出す漆黒の影だけで、あらゆる中間色を拒否する世界の縮図のように思えてくる。人々は痛いほどの日差しを避け、日陰から日陰へとすばやく移りながら歩く。慣れないうちは、くるくる変わる明と暗のコントラストの繰り返しに眩暈を覚える。街の中では自らの宗教的アイデンティティーを強調

するいでたちの人が目をひく。ユダヤ教徒は祈り用の

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No.74

ショールを肩にかけたり、小さな頭蓋帽を被ったり。長い巻き毛のもみ上げの神秘派や真夏でもフロックコートに毛皮の帽子の正統派もいる。イスラムの信徒は祈りのために小さな絨毯を巻いて携えていたり、女性は細いヒールで長いドレスとベールをはためかせて歩く。キリスト教からは黒い筒状の帽子に黒髭・黒服のギリシャ正教、フードつきの茶色い僧服のフランシスコ会士、とりどりの修道服を着た尼僧たち……。加えてオリーブ色の軍服の武装兵士はいたるところにいるし、自動小銃をかかえた休暇中の男女の兵士もよく見る。すれ違いざま、人々は影におおわれた眼窩から一瞬、

必ず矢のような視線を放ってくる。ここに暮らす人々は自分が今どこで何をしていて、周囲がどういう状況にあるのか、すれ違う人間は敵か味方か、瞬時に判断を余儀なくされている。平和ボケの日本から来た身にはその視線の矢が当初はこたえた。あげくに夜中、ふと目醒め、厚いカーテンの隙間から射し込む月光が部屋の闇をざっくりと分断しているのに、はっと飛び起きたこともあった。しかし、帰国してしばらくすると、あのコントラストと緊張感がエルサレムの魅力の一部であることに奇妙ななつかしささえ覚えるのだ。エルサレムを訪れる観光客や巡礼の中には、実際に

精神に異常をきたした人が200人を上回った年もあった。そういう「エルサレム症候群」に罹った人のための専門医療施設まであり、適切な治療を受けると殆どの人が数日でケロリと「正常」になる。その多くは敬虔なプロテスタントのアメリカ人だという。しかし、街角で派手なマントを肩に、厚紙に金紙をはった王冠を被り、ダビデ王だと称していたアメリカ英語の男性を見たことがある。大預言者「エリヤ」や「イザヤ」もいるし、「メシア」だってちょいちょい出現するとも聞いた。エルサレム症候群の原因は、想像していた聖地エルサレムと聖俗混沌の現実とのギャップだろうと言われてはいる。私自身の体験からは、陽光を受けて色彩に充ちた世界が、日陰ではモノクロームに反転し、たちまち寓意性を帯びる、そのような転変の激しさにも原因があるように思う。いずれにせよ、この症状で治療を受けた人々の多くが、その経験をネガティブには評価せず、いい経験をしたと振り返っているあたりが聖地エルサレムならではではないだろうか(14)。

黄金と瑠璃わたしたちはたぶん遠い昔からこの世の外に向かってひらいている耳目を持っていて、いつもははたらかぬそれにかの笛の残韻がとび込んできたのだが……-石牟礼道子「泉のような明晰」(阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男』巻末解説)(15)

わずか3度のエルサレム滞在の全部を合わせてもひと月あまりだというのに、私はエルサレムに「帰りたい」と思うことがある。そういう時、私は時空を越えてエルサレムの日没をノートルダムセンターのテラスで迎

えている。東西エルサレムのちょうど境界線上にあり巨大な要塞のようなこの建物は戦略的に重要な地点であるため、石の壁には無数の弾痕が残っている。眼下に東エルサレムの市街が扇状にゆるやかに起伏し、正面遠景にヘブライ大学のあるスコーパス山を見上げることができる。市街のこちら側には高層ビルが無い分、景色に空の占めるスペースが広く、大空は太陽が傾くにつれて瑠璃色を深めていく。高地特有の夕暮れの涼しい風が吹きわたるなか、今ごろは「嘆きの壁」が陽光を浴びて黄金に輝いているだろうと思う。日中と夕方の温度差でしっとりと露をふくんだ壁はまるで涙をためているように見えるかもしれない。この空の色の石、ラピズラズリは磨くと金の斑点が

現れる。古代オリエントの人々は瑠璃と金の妙なる配色を古くから知っていただろう。中東諸国では黄金に瑠璃石を配した見事な宝飾品が多く出土している。刻々と瑠璃色の深まる空の下のエルサレムを眺めていると泥沼化するイスラエル・パレスチナ紛争はあまりにも哀しい。泥を落とし、磨き上げ、異なった民族と宗教の人々が、瑠璃石とその中の金の斑点のように、溶け合わずにくっきりとそれぞれを引き立て合う存在となれないものか。アウトサイダーの私たちにできることは少ないが、小さなひとつのこと、それは自分の世界の人々に、自分の言葉で黄金のエルサレムを語ること、そう私は思っている。そうすれば、聞く人の心の耳に、エルサレムは必ず自らの輝きをもって自分の歌を歌い始めるだろうから。

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No.74

(1)W.ブレイク著・寿岳文章訳 『エルサレムへの道 ブレイク詩文選』 西村書店, 1947, 表紙見返し.

(2)T.キニーリー著・幾野宏訳 『シンドラーのリスト』 新潮文庫,1989, 199頁.

(3)拙訳, 詩(ヘブライ語/英訳)は以下のウェブサイト参照: Y.Levine,“The Career of a Song”, International Wall ofPrayer (http://www.internationalwallofprayer.org/Index-001-

Jerusalem-of-Gold.html 2004.1.22)(4)E.ヴィーゼル著・岡谷公二訳 『エルサレムの乞食』 新潮社 ,

1974, 190頁.(5)M.ギルバート著・白須英子訳 『エルサレムの20世紀』 草思

社, 1998, 367頁.(6)K. Armstrong, A History of Jerusalem, London, Harper

Collins Publishers, 1996, pp.398-399.(7)V.E.フランクル著・霜山徳爾訳 『夜と霧』 みすず書房, 1961,

78頁.(8)E.マール著・柳宗玄他訳『ヨーロッパのキリスト教美術』

岩波書店 , 1980, 145頁 .(9)柳宗玄『色彩との対話』 岩波書店 , 2002, 61頁 .(10)A.エロン著・村田靖子訳『エルサレム 記憶の戦場』 法政

大学出版局 , 1998, 60頁参照 . .(11)同上 , 13頁 .(12)同上 , 139頁 .(13)A.I.Killgore,“Vignettes From Jerusalem the Golden”,

Wa sh i ng t on Repo r t On M idd l e Ea s t A f f a i r s ,April/May, 1997, pp.34-35.

(14)A.エロン , 前掲書 , 193-195頁参照 .(15)石牟礼道子「泉のような明晰」(阿部謹也『ハーメルンの笛

吹き男』巻末解説)ちくま文庫 , 1988年 , 306頁 .

筆者は日本に所在する15世紀ヨーロッパ活版印刷本

(incunabula:インキュナブラ、インキュナビュラ、イ

ンクナブラ)の全国所在調査を行っている(1)。この調査

の一環として2003年10月に関西学院大学図書館に所蔵

されている2点の聖書を拝見させて頂いたので、それら

の特徴について報告したい。

グーテンベルク『42行聖書』1点目はグーテンベルク印行ラテン語聖書、いわゆる

『42行聖書』の第2巻の零葉2枚である。宮谷宣史教授が

『時計台』No.71(Apr. 2002)(2)で「グーテンベルク聖

書」について述べられているので、そこでは言及され

なかった書誌学的な事項について記述しておこう。こ

れら2葉は第2巻の145葉と146葉であり、寸法はそれぞ

れ360×264mm。旧約聖書の「ホセア書」11章8節以降

と「ヨエル書」1-3章を含み、各章冒頭のイニシャル

が2行分の高さで朱書きされ、145葉裏の「ヨエル書」

冒頭には6行分の高さで「V」が青で装飾的に書き入れ

られている。また、145葉表のヘッドラインには「Osee」、

146葉表には「Jobel」と書かれている。このように巻頭

や章冒頭のイニシャルやヘッドラインを赤や青で書き

入れることを「ルブリケイション(rubrication)」と言

い、中世の写本文化の伝統に由来するものである。

『42行聖書』第2巻は32の折丁から構成され、初めの

15の折丁がいずれも10葉からなる。これら2葉はその15

番目の折丁の第5-6葉にあたり、本来はbifoliumという

一続きのシートであった。しかし、スクリブナー

(Scribner's Son)が販売時に1葉ずつにカットしてそれ

ぞれをケースに入れたと思われる。実際、2葉の切れ目

を見れば元は一続きであったことが容易に判明する

(図1-2)。

宮谷教授が述べているように、これら2葉はドイツの

トリアー近郊の農家で偶然に発見された不完全本の第2

巻に由来する。この不完全本第2巻は「Trier II」と呼

ばれている。「Trier II」とセットになる第1巻はベルギー

のモンにある不完全本(Mons)であったことが明らか

にされている。両巻は多くの葉が抜き取られて世界中

に散逸している。最近アメリカのホワイト(White,

17

No.74

早稲田大学図書館 雪嶋 宏一

関西学院大学図書館所蔵の15世紀刊行聖書について

図1グーテンベルク『42行聖書』第2巻145-146葉のouter sheet

図2グーテンベルク『42行聖書』第2巻145-146葉のinner sheet

Eric Marshall)氏が両巻の散逸した各葉を追跡して、

どの葉がどこに所在するのかをリストにした(3)。筆者が

以前調査した大阪青山短期大学図書館所蔵の2葉につい

ても彼から問い合わせがあり、Monsに由来することが

画像によって確認された。これら2葉は第1巻の142葉と

145葉からなるbifoliumである。こうして、館蔵の2葉は

大阪青山短期大学所蔵の2葉と同じセットに由来するも

のであることが判明したのである。

ところが、ホワイト氏のリストには館蔵の2葉も掲載

されており、「ワシントン州スポケインのルドルフ・リ

ューソルド夫人旧蔵(Formerly Spokane, WA. Mrs.

Rudolph Leuthold)(ノーマン 209)」と記述されてい

る。参照されているノーマン(Norman, Don Cleveland)

の本に掲載された零葉リスト209番を確認すると、そこ

にはスクリブナーに由来するとの注記がない(4)。ホワイ

ト氏に問い合わせると、彼はアメリカでこれら2葉を見

ていないが、これまで『42行聖書』第2巻の零葉として

第145-146葉の所在が記録された例を挙げて、146葉の

みが英国のブラックバーンにある博物館に所蔵される

以外には第145-146葉が同時に記録された例はノーマ

ンが唯一であるという。しかもノーマンのリストには

誤りが多いため、これがスクリブナーによって販売さ

れたものである可能性が高いという。ちなみに、リュー

ソルド夫人は書物収集家としてはほとんど知られてい

ない。そのような人物が『42行聖書』の続きの2葉を一

緒に所蔵することは稀有である。したがって、これら2

葉は夫人によって別々に収集されたものではなく、セッ

トで入手されたものとみなされよう。そうであるなら

ば、夫人の2葉は1953年以降にスクリブナーによって販

売されたセットである可能性が高い。つまり、ホワイ

ト氏の言を信じれば、館蔵の2葉はワシントン州スポケ

インのルドルフ・リューソルド夫人旧蔵ということに

なろう。

コーベルガー『ラテン語聖書』2点目は『時計台』No.73(Sept. 2003)に紹介された

コーベルガー印行『ラテン語聖書』である(5)。15世紀最

大の印刷業者と言われたニュルンベルクのアントン・

コーベルガー(Anton Koberger)が1478年4月14日に

印行した『ラテン語聖書』は、修道僧メナルドゥス

(Menardus)がヤコブス・デ・イセナコ(Jacobus de

Ysenaco)(アイゼナッハ?)に宛てた書簡が付加され

た注釈なし聖書のグループに属する。このグループの

初版はバーゼルのベルンハルト・リヘル(Bernhard

Richel)が1474年頃に上梓し、1477年にコーベルガーが

福音書対観表を巻末に追加した。館蔵本はこのグルー

プの第6版であり、メナルドゥス書簡と福音書対観表が

巻末に置かれている。ちなみに、同じ版はわが国では

他に明星大学図書館が所蔵している。コーベルガーは

この版を1478年11月、1479年8月、1480年4月に再刊し

ている。

館蔵本は第1葉を欠く不完全本であるが、装飾、製本、

来歴の点でユニークである。まず、装飾であるが、第2

葉表左コラムの3行目から13行分のスペースに「Frater」

のFが金、赤、青、薄緑色を用いて豪華に彩色され、植

物文様で装飾されて巻頭を華麗にしている。そして、

各書の巻頭と各章の始めのイニシャルとパラグラフマー

クは赤と青で交互にルブリケイションが施されている

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No.74

図3コーベルガー『ラテン語聖書』第2葉表

(図3)。ドイツで行われた装飾であると推測される。

製本は15世紀当時のもので、こげ茶色の仔牛革の表紙

全面に斜格子状に空押しが施され、上端と下端には三

つ葉形の花文の刻印が見られる。表紙平の四隅および

中央には半球状の金具があり、表紙の各コーナーには

鉤形の金具が留められ、さらに前小口側に表紙を留め

る1対のクラスプの留金が残っており、堅牢なゴシック

装丁をよく保存している。上記の三つ葉形花文がウィー

ンの製本に見られるため、製本地はウィーンであるこ

とが判明する(6)。一方、表表紙に「Biblia impressa」

(印刷された聖書)という書名がゴシック書体で書かれ

ており、写本と区別していたことを推測させる(図4)。

館蔵本のもっとも興味深い点は、第2葉表の上方中央

にペンではっきりと「Ad Bibiliothecam Winbergensis

Monasterij」と書かれていることである(図5)。これは

ドイツ南部のヴィントベルク(Windberg)のプレモン

トレ修道院(Premonstratensian Abbey)図書館に何某

が寄進したことを示す書き込みである。英国図書館初

期刊本部キーパーのゴールドフィンチ(Goldfinch, John)

氏によれば同じ書き込みが英国図書館所蔵本にも見ら

れるという(7)。この修道院では1468-97年の間に収蔵さ

れた写本および印刷本の目録が作られていた(8)。それら

の多くは寄進されたものであるが本書は記載されてな

い。この年代以降に寄進されたものであろうか。同修

道院は1803年のナポレオンによる修道院財産の世俗化

政策で蔵書が散逸したが、現在も修道院は存続している。

以上のように、2点のインキュナブラの調査で判明し

た書誌学的な特徴を記述したが、これらは今までほと

んどどこにも記録されていないユニークな情報である。

インキュナブラは刊行後すでに500年以上を経ているた

め、各コピーには独自の歴史が刻まれている。それを

注意深く読み取ることによってそれぞれのコピーの位

置づけが可能になるのである。

注(1)雪嶋宏一 本邦所在インキュナブラ目録 東京、

雄松堂出版、1995.(2)宮谷宣史 グーテンベルク42行聖書 時計台、

No. 71、2002、p. 2-6.(3)White, Eric Marshall. Long lost leaves from

Gutenberg's Mons-Trier II Bible. GutenbergJahrbuch, 2002, p. 19-36.

(4)Norman, Don Cleveland. The 500th anniversarypictorial census of the Gutenberg Bible.Chicago, 1961, p. 258.

(5)書物としての聖書、時計台、No. 73、2003、p.10-13.

(6)Kyriss, Ernst. Der verzierte europäischeEinband vor der Renaissance. Stuttgart,1957, Tafel 12.

(7)Catalogue of books printed in the XVthcentury now in the British Museum, pt. I.London, 1908, p. 84.

(8)Mi t t e l a l t e r l i c h e B i b l i o t h ek ska t a l ogeDeutschlands und der Schweiz. Bd. 4, Tl. 1.München, 1977, S. 582-592.

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No.74

雪嶋 宏一(ゆきしま こういち)早稲田大学図書館司書、早稲田大学教育学部講師、明治大学リバティ・アカデミー講師

15世紀の活版印刷本(インキュナブラ)を中心に西洋書誌学を研究。日本全国に所蔵されるインキュナブラを1988年から書誌学調査して全国所在目録を作成。目録第1版を1995年に上梓し、現在は改訂増補版を編集中。

編著 『本邦所在インキュナブラ目録』(雄松堂出版)

図4コーベルガー『ラテン語聖書』の装丁

図5コーベルガー『ラテン語聖書』第2葉表の書き込み

モスラー教授コレクションヘルマン・モスラー教授は、ラインラントのヘネフ

に生まれ、大学卒業後、国際法の研究機関であるベルリンのカイザー・ウィルムヘルム研究所に移籍し、戦後1946年にボン大学で教授資格を取得。同年、フランクフルト・アム・マイン大学で講座を受け持ちました。その後、当時のアデナウワー首相の下で、ドイツ連邦共和国外務省法務局の任に就き、1954年には、ハイデルベルグのマックス・プランク研究所所長に就任するとともに、同じくハイデルベルグのルプレヒト・カール大学教授にも任ぜられました。1959年には欧州人権裁判所判事に指名され、その副理事も務めた後、1976年には、ハーグ国際司法裁判所の判事にも指名されています。国際法及び国際私法のエキスパートとして、上記の

ような輝かしい経歴を持つモスラー教授が、研究活動の傍ら、生涯にわたって収集した蔵書は、同教授の幅広い学識と経験に裏打ちされた、きわめて質の高い貴重なコレクションとなっています。このたび本学図書館に所蔵されたのは、そのうちの国際私法学関係と私法関係を中心とした文献320点(720冊)から構成されるものです。その内訳は、以下のようになっています。1. 国際私法学関係の文献2. 1804年フランス民法典とフランス私法3. 1811年オーストリア民法典とオーストリア私法4. ドイツパンデクテン法学とドイツ私法5. ドイツ法および19世紀ドイツ私法6. プロイセン普通法と地方特別私法7. ドイツ民法典と20世紀ドイツ私法8. 1907年スイス民法典とスイス私法9. イギリス法10.イスラム法制の比較法的文献

国際私法学関係文献分類1は、国際私法学における大家の名著のコレク

ションです。ここには、古くは16世紀フランス学派の中心の一人で、法規三分説を唱え、後世のフランス学派に大きな影響を及ぼしたダルジャントレ(1519-1560)、オランダ学派の影響を受け、アメリカの国際私法の礎となったストーリー(1779-1880)、法規分類学説を批判したドイツのヴェヒター(1797-1880)などの古い文献も集められています。そして、現在の国際私法学を語

る上で欠かせない、ドイツのサビニー(1779-1861)の名著『現代ローマ法体系』も全巻揃えられています。これは、その第8巻において彼が、「最も密接な関係のある地の法律」を適用すべしという、現在の国際私法学における公理を初めて提示し、「国際私法学におけるコペルニクス的転換」と評された、歴史的モニュメントともいえる文献です。その他、サヴィニーの流れを汲むドイツのフォン・

バールをはじめとして、サヴィニー以降の国際私法学の文献としては、アメリカのビール、ドイツのノイハウス、ウルフ、イギリスのモリスなど、ここに全て列挙はできませんが、多くの基本書が揃えられています。また、グロチウスの名著『平和と戦争の法』も、国際法のみならず近代私法の分野にもまたがるものとして、本コレクションに含まれています。またこの文献は、1735年版のもので、歴史的に貴重な資料としての価値も注目されます。

私法の法典及び関連文献分類2以下は、ヨーロッパを中心とした各国の私法

の法典およびその注釈書をはじめとする私法関係の文献となっています。これは、ひとつには、国際私法は当初は独立した法典として設けられず、民法など他の法典の中の一部の規定として成文化されたという経緯から来たものです。例えば、1804年のフランス民法典は、その3条に国際私法規定が設けられ、国際私法立法の沿革上、極めて重要な意義を持つものです。また、それに続く1811年のオーストリア民法典にも、同様に国際私法規定が設けられました。さらに、1896年のドイツ民法典には、それ以前の立法に比して、質量ともに整備された国際私法の規定が設けられ、後の諸国の立法に大きな影響を与えています。このように、国際私法立法の沿革の研究対象として、当時の各国民法典

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No.74

法学部教授 岡野 祐子

特別図書資料解説モスラー教授旧蔵書コレクション

『ブリュターニュ公国における慣習法註解』

は重要な資料となっているのです。もうひとつは、国際私法が、複数の国の関連したあ

る事案にいずれの国の法律を適用するかという、準拠法決定のための規則であることから、各国私法の比較法的研究も必要となってくることにあります。そのため、本コレクションには、国際私法規定が設けられたものにとどまらず、より広い範囲の私法の法典ならびに注釈書などの関連文献が含まれています。モスラー教授がドイツの学者であることから、ドイツ法に関する豊富な資料が含まれていることはもとより、フランス法に関する文献や、オーストリア法に関する文献など、主としてヨーロッパの私法に関する文献が中心となってはいますが、イスラム諸国の法制に関する文献も含まれており、その対象は、幅広く網羅されたものとなっています。その結果、本コレクションは、単に国際私法の分野にとどまらず、広く私法全般の研究や、その発展史の観点からも、極めて有益なコレクションとなっています。

貴重資料としてのコレクションさらに本コレクションの特徴として明記すべきは、

上記のような、幅広い領域にわたる資料が収集されているとともに、先にも少し触れましたが、1600年代、1700年代に出版された貴重な文献が多く含まれていることです。例えば、ドイツ民法の素地となったパンデ

クテン法学がローマ法継受の伝統を受けて構築されたことから、分類3には、『ローマ法大全』についても貴重なコレクションが揃っています。とりわけ、この『ローマ法大全』のうち、ゴトフレイドゥスとアックルシウスによる注釈がなされた『勅法彙纂』や『法学提要』がそれぞれ1612年の初版本で揃っているのも、きわめて資料価値の高い、貴重なコレクションとして注目されるといえるでしょう。また、時代は少し下りますが、分類2には、先に述

べた1804年のフランス民法典の初版本の他、ドイツの学者であるダニエルズによる同法典のドイツ語訳の初版本(1805年)や、同法典が1807年に「ナポレオン法典」の公式名称で改めて交付された後の、同じくダニエルズによるドイツ語訳の初版本(1808年)も揃えられています。さらには、同法典が、ライン同盟諸国の中のバーデン大公国において公式に翻訳され採用された、いわゆる「バーデン・ラント法」の初版本(1809年)も入っており、これらのコレクションは、ドイツ語圏における同法典の影響を研究するにあたっての、貴重な資料といえるでしょう。

おわりに以上述べてきましたように、本コレクションは、ヨーロッパにおける国際私法や、私法の成立の経緯およびその後の発展を見るのに有用なコレクションです。また、基礎法などそれ以外の広い法分野においても貴重な文献であるといえるでしょう。これらの文献が図書館でまとめて利用できるようになりますので、本学の多くの教員、学生にとって利用価値の高い資料となり、比較法学的研究、歴史的研究においても、一層の充実が果たされると考えられます。これだけの貴重な資料がまとまって購入できる機会は稀有であることから、これらを散逸させることなく、まとめて所蔵することは、コレクションとしての価値を高めるばかりでなく、その文化的重要性もきわめて高いと考えられます。このたび本学図書館に所蔵されたこれらのコレクションが、ぜひ有効に利用される事を願っています。

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No.74

岡野 祐子(おかの ゆうこ)関西学院大学法学部教授国際私法、国際取引法専攻著書『ブラッセル条約とイングランド裁判所』(大阪大学出版会)2002年発行

『自然的秩序における私法』

『ローマ普通法における論争』

『ローマ法大全』

『勅法彙纂』・『法学提要』

グラフ・マガジン『LIFE』は、私たち戦後世代にとって、アメリカという存在そのものであった。アメリカ民主主義と豊かな物質文明への憧憬が、日本の戦後史に活力を与えてきたとするならば、それは『LIFE』を通して経験したものであったと述べても過言ではない。『LIFE』こそが、20世紀を「アメリカの世紀」と称揚するアメリカの典型であったから、『LIFE』を窓口として、時には憧れ時には反発を覚えながら、アメリカと積極的に向き合ってきた。このたび関西学院大学図書館に、フォト・ジャーナリズムの黄金時代を築いた、この『LIFE』のすべて、1936年の創刊から1972年の休刊まで、37年間の73巻(1864部)の週刊誌すべてが所蔵されることは喜ばしい限りである。ページを一枚一枚めくることで、自らの過去とアメリカを重ね合わせながら、アメリカが若いエネルギーに満ち溢れていた時代、『LIFE』の時代にタイム・スリップしている。『LIFE』の37年間の歴史は、大恐慌に始まりベトナ

ム戦争に終わるという、アメリカにとっても激動の時代であった。ニューディール、第二次世界大戦、公民権運動、ベトナム戦争と、対外的にも、国内的にも激動の時代であったが、民主主義への自信と、自由と正義の擁護者としての誇りに輝いていた。『LIFE』に満ち溢れているヒューマニズムもまた、そうした理想主義の反映であっただろう。創設者ヘンリー・R・ルースが、1941年2月17日の『LIFE』で、「20世紀はアメリカの世紀にならなければならない」と論じたことは、よく知られている。自由と民主主義に裏づけられたアメリカ文明が世界に拡大し浸透していくべきことを信じた彼の理想主義は、やがて戦後のパックス・アメリカーナと称される繁栄の時代に最も強く現れることになった。第35代大統領JFK(ジョン・F・ケネディ)が1961年の就任演説で述べたフロンティア精神、「アメリ

カ国民たちへ、国が諸君のために何をなしてくれるかではなく、諸君が国のために何をなしうるのかを問いたまえ。わが友である世界の市民諸君へ、アメリカが諸君のために何をなすかではなく、われわれが共に何をなしうるのかを問い給え」に、明確に示されている。『LIFE』創刊のきっかけは、ルースが、写真の時代

が来るだろうことを見越して、大衆を啓蒙する写真構成による週刊雑誌を作ろうとしたことにある。新聞、雑誌に写真が自由に印刷される時代を迎えると、ニュース写真の新鮮さが読者をひきつけた。また、記録するものとしての写真は、大量に複製する印刷メディアと結びつくことで、急成長した。さらに、大量消費の時代に広告掲載費で製作コストをカヴァーし、一冊あたりの単価を安くして、大量の定期購読者を確保しえたことも成功につながった。より多くの人々に情報を伝えようとする姿勢は、多くの意欲ある写真家に活躍の場を与えるとともに、「フォト・エッセイ」というフォト・ジャーナリズムの新しい形式を生んだ。複数の写真の組合せとキャプションとにより、テーマの内面的な真実へと迫ろうとするもので、写真は、対象やテーマに深く分け入り、優れた解釈を提示するものが求められた。『LIFE』創刊号に加わったのは、『FORTUNE』の

編集次長であった、ニューヨーク生まれの女性写真家マーガレット・バーク・ホワイト、この時期ナチス・ドイツを逃れた有能なカメラマンや編集者がアメリカへやって来たが、そのひとりアルフレッド・アイゼンシュテット、『TIME』のカメラマンであったトマス・マッカヴォイ、サンフランシスコのピーター・スタックポールなどの写真家が中心であった。またその後、「マグナム・フォトス」(写真家自身による、主義や流派を越えて自由な表現と立場を保証する国際的な協同写真通信社)を1947年に設立した、スペイン内戦のコルドヴァの写真で知られる「戦争写真家」ロバート・キャパのような、フォト・ジャーナリストも加わった。彼は第二次世界大戦中には、ノルマンディー上陸作戦などの戦線に赴いて、戦争の悲惨さを伝えようとした。また、カンザス州生まれのユージン・スミスも『LIFE』で仕事をしたが、求道的とさえいわれる、数々の人間愛に満ちた傑作を生みだした。1951年の「スペインの村」や、1954年の「慈悲の人シュワイツァー」などは、芸術性も高い。また、晩年には、来日して水俣病を告発する

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No.74

文学部教授 田中 きく代

『LIFE』によせて

Hiroshima -原子爆弾の投下後-(1945年9月17日号)

傑作を残した。『LIFE』の写真には、きわめて日常的な「普通の人間」の中に存在する世界に目を向け、そこに垣間見られる真実を世界に知らしめたところにも、高い評価が与えられている。しかし、『LIFE』の魅力は、内外の報道記事に見られたような啓蒙的な理想主義だけではない。理想を現実のものとする物質的な豊かさを、目に見せてくれたことにもある。ハリウッド映画と同じく、著名人の特集、芸能記事、宗教、音楽、漫画など、『LIFE』の多様な記事に凝縮された刺激的な物質文化に魅了されたことを隠しえない。エルヴィス・プレスリーやマリリン・モンローの特集は、象徴的であろう。また、その紙面にあった、生活用品、自動車、食品、飲料水、タバコ、家電など、大衆をターゲットにした、カラフルな広告ページも、アメリカ的生活様式を示すものとして魅力的であった。アメリカでは1920年代から、大衆の台頭による消費文明の興隆が目覚しかったが、この消費文明なくしては、フォト・ジャーナリズムの魅力は半減したであろう。ところで、アメリカには、19世紀末からフォト・

ジャーナリズムの基盤があった。19世紀末から20世紀初頭にかけての急激な工業化や都市化により、資本主義の矛盾が社会悪を生み出していた。こうした不正や不平等を暴こうとしたジャーナリストたちを、マックレカーというが、彼らが作り上げた社会批判の精神は、社会にかかわりあう写真家を生み出した。当時、労働者階級や貧困層の子どもたちは、充分な教育を受けることもできず、労働に従事せざるをえない状況にあった。こうした状況に対して、ニューヨークの貧民街を撮影したジェイコブ・A・リースは、『この世のもう半分はいかなる生活をしているのか』(1890)を出版し、ニューヨークのスラム街の惨状を訴えた。写真家、ルイス・W・ハインは、革新主義運動の一環としてであるが、1908年から1918年にかけて、国家児童労働委員会のスタッフとして全米の年少労働者を撮影した。彼は、子どもたちの置かれている状況を写真によって告発し、その状況を改善することを目指していた。ハインの撮影した一連の写真は、アメリカにおける最初の本格的な社会的ドキュメンタリーとして位置づけられている。また、1929年からの大恐慌によって国内の経済が壊

滅的な状況に陥り、とくに農業が大きな打撃を受けたが、当時のアメリカ大統領FDR(フランクリン・D・ルーズヴェルト)は、国内の惨状を写真によって記録することで、ニューディールの農民救済政策への支持を集めようとした。コロンビア大学の経済学者であるロイ・ストライカーの指揮のもとに、さまざまな写真家がこのFSA(農地保全管理局)のプロジェクトに参加した。代表的な写真家として、ウォーカー・エヴァンズ、ベン・シャーンなどが挙げられる。とくに、ドロシア・ラングが撮影した「移民の母」は、大恐慌の時代を象徴するフォトとして、アメリカの報道写真の基本的な方向性を示したといわれている。『LIFE』は、アメリカにおけるこうしたリベラリズ

ムの系譜を受け継いでいる。しかし、アメリカのリベラリズムが、国内に向けられる時は、自由を拡大することに貢献して来たとしても、国外に向けられる時は、「世界の民主主義のために」を旗印に、帝国主義的な不自由の押し付けと結びつく側面があったことも否めない。ルースの「アメリカの世紀」には、二重の意味が含まれている。『LIFE』の一つ一つのフォト・エッセイは、社会にかかわりあうフォト・ジャーナリストの真摯な目差しを記録している。このことを、私たちの心の中に強く記憶させるとともに、『LIFE』もまた、全体として見るとき、アメリカニズムの魔力から逃れえていなかったことを、記録として後世に残していかなければならない。この役割を担うメディアとして、テレビの時代が終わりを告げようとする最近、『LIFE』自体に、あるいは『LIFE』のフォトに込められたジャーナリスト魂の再登場に期待がかかっている。

(参考ウェブ http://www.life.com/)

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No.74

田中 きく代(たなか きくよ)関西学院大学文学部教授。人種・民族問題を中心に、西洋近現代史における政治文化に関心を持っている。特にアメリカ合衆国史を研究領域としており、従来の歴史に記録されなかった「普通の人々」の声を一つ一つ拾い上げようとしている。最底辺に埋もれている個の発掘なくして、「近代」の歴史は完結しないと思っている。私の著作や授業に「著名人」の名前があまり出てこないのはこのためである。個と向き合いながら、古代から現代まで時空を超えた世界的空間で遊ぶこと、それが歴史学の醍醐味である。最近では、移民や孤児を直接の研究対象としているが、主著に『南北戦争期の政治文化と移民―エスニシティが語る政党再編成と救貧』(明石書店、2000年)がある。

「私には夢があります」ワシントン大行進でのマーチン・L・キング牧師

(1963年9月6日号)

ジョン・F・ケネディ大統領就任(1961年1月27日号)

本蔵書の寄贈者小島達雄先生は1927年生まれである。1949年京都大学文学部フランス文学科に入学。在籍中1950年から劇団「テアトロ・トフン」文芸演出部に所属して演劇を始められるようになった。同大学大学院の研究奨学生のころには演劇に情熱を燃やして本格的に活動されるようになり、また大映の映画脚本部スノブシスやラジオドラマの台本も手がけられた。1954年には「京都ドラマ劇場」演出部に移籍して、俳優として舞台に立たれることもあった。1958年4月本学経済学部専任講師に就任され、以後、大学・学院の数々の重責を果たして本学のために力を注がれると同時に、一貫して演劇活動を精力的に続けられた。3回の海外留学の際(1967年9月~1968年10月、1983年4月~1984年3月、1990年5月~8月)にも「古典の現代的上演、ヨーロッパ現代演劇の動向」を研究テーマに東西ヨーロッパのほとんどの主要都市での演劇動向(演劇やオペラ)を見聞・調査され、各国の演劇人との交流を深められた。1996年3月関西学院大学名誉教授の称号をうけて定年退職された。小島先生は実際に劇団に所属し、西洋古典劇の現代

的上演や現代前衛劇の演出等に関わっておられたこともあって、収蔵されている蔵書には大きな特徴がある。先生のご研究は、文学的な戯曲研究というより、舞台化の角度からの演劇研究というのがその基本姿勢であった。例えば、フランス文学科の学部生対象のモリエール戯曲の講読では、先生は舞台の変化や俳優の動きを克明に描写して、学生たちが戯曲を舞台として受けとめることを重視され、わたし自身受講した大学院の「フランス前衛劇研究」は戯曲史的観点からではなく、むしろ演出史の観点からのものであった。難解なJarryやArtaudの理論書を読み解きながら、その実際の反映例として様々な演出家の舞台を豊富な舞台写真等を使って紹介し、フランス前衛劇の流れを理解させるという形のものであった。そんなこともあって、先生の蔵書には、各劇作家や作品の上演史や上演された舞台の記録、舞台写真、劇評集、演劇論、演出論などが数多く集められており、また演技の問題にも関心をもたれていたため、各種の演技論関係書も多い。いわば、フランス演劇のための蔵書というより、演劇そのもののための蔵書というべきだろう。蔵書は仏書と和書がある。

その主要な収蔵本を仏書の方は四つのグループに、和書は三つのグループに大別して紹介する。

フランス語関係A. Molièreを中心としたフランス古典劇関係① Molière全集:Grands Ecrivains版及びCopeau編集の

Cité des Livres版の全集は非常に貴重なもの。他に、Pléiade版もMolière研究には必須の文献であろう。Molièreの現代的演出を考える場合、Copeau版の各戯曲に対する注釈は重要な意義を持つといわれている。

② フランス古典劇関係の理論書や古典劇の上演に関する研究書の他、Molière研究書の重要なものはほぼ揃っている。

B. フランス前衛劇を中心とした現代演劇関係① 全集:Curel、Lenormand、Claudel、Rolland、

Pirandello、Romains、Salacrou、Vildrac、Anouilh、Artaud、Vitrac、Sartre、Camus、Ionesco、Adamov、Beckett、Genet、Arrabal等の他に、Brecht全集やHavel、Mrozek等の東欧戯曲の仏訳書等。

② Jarry、Artaudの研究書をはじめとするフランス前衛劇の研究書が網羅されている。先のMolière研究書とともに非常に貴重な文献が多い。

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No.74

商学部教授 森本 達夫

小島蔵書の概要と紹介

小島 達雄(こじま たつお)関西学院大学名誉教授

1927年滋賀県に生まれる。第三高等学校、京都大学文学部フランス文学科を通じて伊吹武彦教授に師事。学生時代から京都で演劇活動、特に演出活動を始める。1952年日本演劇学会関西支部発足とともにその事務局長として支部長山本修二教授を補佐し、のち同学会理事として学会活動を続ける。一方、1958年関西学院大学経済学部の専任講師に就任。1962年同助教授。1970年同教授。この後、1978年から1982年までの間学生部長として学生施設整備充実計画を担当し、その推進に努力。1990年以降は新学部設立のための検討委員長、1992年からは新学部担当の常任理事として新学部設立準備室長を務め、三田校地と総合政策学部の開設に尽力。1996年3月定年退職。同5月兵庫県教育功労賞を受賞。この間にも演出活動の他、戯曲の翻訳や脚色上演などの仕事も並行して続ける。近著に『ユダヤ人大虐殺と〈演劇〉』明石書店.1996年。『モリエールと〈状況のなかの演劇〉』関西学院大学出版会.2001年等がある。

C.演劇史・演劇論・演出論・演技論・舞台関係西洋古典劇の現代的上演や前衛劇の演出という実際

的な仕事に関わられたゆえに、名演出家・名優(コポー、ジュベ、バロー、ヴィラール等)の著書や彼らについての研究書の他、Collection 《Mises en scène》やCollection 《les Voies de la Création théâtrale》のような名舞台の記録集(演出ノート)、舞台写真集や舞台装置等の資料が豊富である。また、欧米の演技論論争史をも研究テーマとされていたので、様々な時代の俳優の回想録や演技論も数多く集められている。

D. 雑誌関係① Revue d'Histoire du Théâtre(フランスの演劇史学会機関誌 1952年~1993年)

② Cahiers de la Compagnie Renaud=Barrault(第二国立劇場・ルノー=バロー劇団の機関誌 1953年から全冊)

③ Théâtre Populaire(第三国立劇場T.N.P.の機関誌1953年から全冊)

④ Théâtre en Pologne フランス語版(ポーランド演劇の紹介 創刊号から1990年まで)上記4点は再入手の非常に困難なもので、日本では希

少価値があるだろう。他に、1960年~1980年代のAvant-Scène、 Paris-Théâtre、 Revue du Théâtre(いずれも、当時上演中の現代戯曲および舞台・俳優などの紹介・批評を掲載した雑誌)等多数。

日本語関係戦後日本で公刊された各種戯曲全集・演劇雑誌・演

劇講座・翻訳戯曲全集・研究書の主要なものはほぼ網羅されている。A. 戯曲全集①日本戯曲全集 ②世界戯曲全集 ③近代劇全集

④現代日本戯曲大系 ⑤新選現代戯曲 ⑥現代世界戯曲選集 ⑦現代世界演劇 ⑧現代フランス戯曲選集⑨今日の英米演劇 ⑩ 現代アメリカ戯曲選集 ⑪ギリシア悲劇全集 ⑫ギリシア喜劇全集 ⑬古代ローマ喜劇全集その他、個人劇作家の全集としては、シェイクスピア、モリエール、ラシーヌ、ブレヒト、ベケット、イヨネスコ、ミラー、ウィリアムズ、デュラス、ピンター、森本薫、安部公房、宮本研等、他に個別戯曲多数。B. 研究書・講座・事典(日本・世界・各国の)演劇史、演劇理論、演劇の

実際関係の各種講座や個別研究書の他、特にソヴィエト演劇・スタニスラフスキー関係の研究書が多い。事典・講座として①演劇百科大事典(全6巻) ②演劇講座 ③演劇論講座 ④現代演劇講座 ⑤現代演劇⑥日本の芸談 ⑦てすぴす双書 ⑧文庫クセジュ(演劇関係)等C.雑誌①『テアトロ』(戦後の全冊、戦前のものも多数集め

られている) ②『悲劇喜劇』(全冊) ③『新劇』(全冊)その他、数種の演劇雑誌や各種雑誌の演劇関係特集号を含む。

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No.74

森本 達夫(もりもと たつお)関西学院大学商学部教授(フランス語担当)

専攻はフランス現代演劇。パリ第三大学博士(演劇学)。著書Fonctions du rire dans le théâtre français contemporain(A.-G. Nizet, Paris, 1984)がある。

1935年以降の代表的舞台装置写真集(全2巻)

名舞台写真集(第6巻)演劇雑誌4タイトル

よく知られているドイツの百科事典は『ブロックハ

ウス』と『マイヤー』である。このうち、『ブロックハ

ウス』の初版の第1巻は1796年、『マイヤー』の初版の

第1巻は1840年にでた。『ブロックハウス』200周年の

1996年には記念事業として第20版が刊行された。関西

学院大学図書館には『ブロックハウス』は第14版以降、

『マイヤー』は第5版以降がある。

『ブロックハウス』も『マイヤー』も初版はながら

く入手不可能とされてきた。ヨーロッパでも古書市場

にでまわることがほとんどなかった。しかし、数年前、

神戸丸善がドイツの古書市場で売りにだされたのを確

保し、昨年、最終的に関西学院大学が購入した。現在、

大学図書館で閲覧できる。

『マイヤー』初版は第1巻の扉にあるように(写真1

参照)、ヨーゼフ・マイヤーを編集責任者として、1840

年にヒルトブルクハウゼンで出版された。ヒルトブル

クハウゼンは中部ドイツのチューリンゲン地方にある

小都市である。いまでは人口1万ほどの地方都市である

が、かつては(1680年から1826年まで)「ザクセン・ヒ

ルトブルクハウゼン公国」の首都であり、公国の首都

として小さいながらも一つの文化都市であった。ヨー

ゼフ・マイヤーはこのヒルトブルクハウゼンで出版業

を営んでいた。もともとはゴータの出身であった。

1796年5月9日にゴータで生まれ、30歳のとき出版業

にはいり、古典の廉価版の出版で成功をおさめ、のち

にヒルトブルクハウゼンに移った。

マイヤーが百科事典の刊行を構想したとき、ドイツ

にはすでに『ブロックハウス』が広く流布していた。

そればかりか『ブロックハウス』に対抗して『エルシュ・

グルーバー』と『ピーラー』という二つの新しい百科

事典が刊行中であった。したがって新規に百科事典を

出版することは無謀ともいえた。

しかしマイヤーは考えた。『ブロックハウス』も『エ

ルシュ・グルーバー』も、また『ピーラー』も、あま

りにも水準が高く一般向けではない。また価格も高価

で実用的とはいえない。ドイツには、もっと一般向き

の百科事典があってもよい。百科事典の新しい市場の

開拓は可能だ。

こう考えてマイヤーは1830年代、ついに出版に踏み

切る。1840年に第1巻(第1巻第1分冊 Lieferung は1839年8月

25日刊)をだし、1855年に全52巻が完結した。ただ、こ

の52巻が順番に刊行されたのではなかった。1840年か

ら1853年にかけて第1巻から第23巻まで(AからNまで)

を順番に刊行していくのであるが、その途中で、第12

巻と第13巻をだした1848年から、OからZまでの「第2

シリーズ」の刊行が始まる。「第2シリーズ」の第1巻

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No.74

商学部教授 早島  瑛

「引く」事典と「読む」事典-ドイツの百科事典『マイヤー』の初版について

写真11. Bd.(1840)

写真22. Abt., 1. Bd.(1848)

(写真2参照)は通算して第24巻となるのであるが、そ

れを第24巻とせずに第1巻としたのは、Aから始まりN

で終わる最初のシリーズが全部で何巻になるか予測が

つかなかったからである。第2シリーズの第1巻の扉に

は Zweite Abtheilung: O bis Z. - Erster Band とある

が、「第1シリーズ」に相当する1840年刊行の第1巻には

単に Erster Band とあって「第1シリーズ」の表記がな

い。これも、もともと第2シリーズを想定していなかっ

たからである。この「第1シリーズ」の最終巻(第23

巻)は1853年、第2シリーズ最終の第15巻は1852年にで

た。そして、本巻全体が完結した1853年から「補巻」

(Supplement-Band)の刊行が始まり、2年後の1855年

に全6巻で完結した(写真3参照)。ただし、補巻第6巻

は223頁までが本編で、235頁に相当する頁からは索引

である。しかし、索引には頁がついていない。ただ、

補巻の最後の部分に「別巻」に集成されている銅版画

のリストがある。

さきに『マイヤー』初版全52巻と書いたが、正確に

は全52冊というべきで、第1シリーズ23巻と第2シリー

ズ15巻を合計すれば38巻、これに補巻6巻をあわせても

44巻にしかならないのは、いくつかの巻に分巻がある

からである。たとえば、第4巻と第7巻はそれぞれ4分巻

で刊行された。つまり本巻が46冊で補巻が6冊、あわせ

て52冊ということになる。そして、これに「別巻」の7

冊が続く。総計59冊である。関西学院大学図書館では、

本巻・補巻・別巻に1から59までの通し番号をつけた。

いちばん確実な方法である。

このたび関西学院大学が購入した『マイヤー』初版

が貴重なのは、もとより本巻と補巻の項目の内容それ

自体によるが、じつはそれだけではない。別巻の7冊に

集成された図版や地図などの「付録」もきわめて貴重

である。『マイヤー』初版に「付録」がつくことは1840

年に刊行された第1巻の扉に「予告」されていた(写真

1参照)。写真が小さいので分かりにくいが、ほぼ中央

の仕切り線のすぐ下に「この百科事典には各時代を代

表する人物のポートレート、紹介するにあたいする景

観、都市と市街地の地図、地理・統計・歴史・宗教に

関する資料、自然史と工芸技術に関する図版が付録と

してつく」とある。この「予告」は各巻で繰り返された。

別巻は7巻で構成され、3部(Abtheilung)に分けら

れた。第1部の4巻、つまり、関西学院大学図書館の通

し番号でいえば第53冊目から第56冊目までの4冊が「人

物と景観」の図版である。ここに、ドイツのライン地

方にある古都「アーヘン」からスイスのヴィルトハウ

スに現存する「ウルリヒ・ツヴィングリ生誕の家」ま

で、大量の銅版画がキーワードのアルファベット順に

集成されていて壮観である。つまりは写真がなかった

時代のことなので、写真のかわりなのであるが、いま

では一葉一葉が貴重な芸術作品といってよい。第2部は

1巻のみ(第57冊目)。これは「地図の巻」であって、

「アドリア海とその沿岸地方」からドイツ南西部の「ヴュ

ルテンベルク」まで、19世紀中葉までに調査された地

勢と地形と市街地の集成であり、いまでは歴史地図と

して高い価値をもつ。最後の第3部は第58冊目と第59冊

目。「農業」から「植虫類」までの「自然史と工芸技術」

に関する図版である。とくに当時の器具や道具に関す

る詳細な図版(写真4参照)は自然科学と技術の歴史の

貴重な資料である。この最後の2冊は、いまであれば

「自然科学と工業・手工業」の巻とよばれたであろう。

別巻には刊行年が記載されていないので、本巻・補

巻と並行して刊行されたものか、あるいは補巻完結後

の1855年以降に刊行されたものかは不明である。もし、

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No.74

写真36. Supplement-Bd.(1855)

写真4Stahlstiche 7, Microscope

1855年以降とすれば、ヨーゼフ・マイヤーは翌1856年6

月27日にヒルトブルクハウゼンで死亡しているので、

生前に全59冊をみることなく没したことになる。

ヨーゼフ・マイヤーが60歳で死亡して、1856年、息

子ヘルマンが事業を引き継いだ。ヘルマンの最初の事

業は『マイヤー』の「新版」(事実上の改訂版)を出版

することであった。これが1857年から1860年にかけて

刊行された全15巻の『新マイヤー』である。『マイヤー』

も『新マイヤー』もきわめて好評であった。1861年か

ら67年にかけて出版された『新マイヤー』第2版などは

印刷予定の4万セットのうち、3万9700セットが事前の

予約注文ではけた。それだけ購買層が広く存在してい

た訳である。この潜在的な需要を探りあてたヨーゼ

フ・マイヤーは単なる出版業者ではなく、19世紀にお

ける出版産業の企業家として20世紀の情報社会を先取

りしていたといえる。ドイツ言語文化はオーストリア

もスイスも含むので一概にはいえないのであるが、『マ

イヤー』初版の刊行が開始された1840年のドイツ

(Deutscher Bund)の人口は約3,000万人であったから、

『マイヤー』の評判をきいて、平均して1,000人に一人が

『新マイヤー』を予約したことになる。

ところで、一般に百科事典とは「引く」ためのもの

である。百科事典には特定の事物、人物、事件、地名

など、さまざまな項目がアルファベット順にならべら

れている。たとえば、関西学院大学の所在地の「西宮」

はドイツの百科事典では「Nishinomiya」で引くことが

できる。すこし前までは「Nischinomija」であった。内

容は『マイヤー』でも『ブロックハウス』でも異同は

ない。最近の版で引いてみると、人口40万、阪神間の

住宅都市、日本酒の産地、「Kansei-Universität の所在

地」とある。ドイツ語では複母音 ei は「アイ」と発音

されるので、これでは「西宮は関西大学の所在地」と

いうことになってしまう。

このように異文化に関する項目には(どの国の百科

事典でも)大なり小なり問題があり、ときには偏見を

生むような記述を含む。しかし、こうした誤解、もし

くは誤った情報それ自体が、一つの情報なのである。

つまり百科事典は最新の情報を含むが、この最新の情

報とは「その段階で正しいと判断されて印刷された情

報」を意味するにすぎない。出版社はつねに最新の情

報を盛り込んだ百科事典の刊行に努力する。しかし、

どんなに努力しても、いつかは「古く」なる。では古

くなった百科事典は「お払い箱」になるのか。第2版が

出版されたら初版は破棄してよいのか。第20版があれ

ば第19版は無用か。そうではない。

百科事典が単に「引く」ためのものであれば、最新

版があればよい。だが、初版も第2版も、第18版も第19

版も、刊行された段階で最新の情報を含んでいた。そ

れぞれの版は、それぞれの時代の情報を集大成してい

て、それぞれの版が、それぞれの時代の情報源なので

ある。『マイヤー』初版には「西宮」の項目はない。も

ちろん「神戸」もない。しかし、「堺」や「長門」はあ

る。ここには『マイヤー』の初版が出版された時代の

ドイツ人の日本認識のありかたが間接的に表現されて

いる。

つまり『マイヤー』の初版は19世紀のドイツはもと

よりヨーロッパのキリスト教世界に関する、ありとあ

らゆる情報の集大成である。それは1855年に埋められ

たタイムカプセルにほかならない。それもヨーロッパ

に関する項目だけではない。たとえば「日本」。「日本」

(Japan)の項は1850年刊の第1シリーズ第16巻に詳細な

参考文献とともに採録されているが、1854年刊行の補

巻第4巻に「より最新の情報」(neuere Nachrichten)

を提示する、との断り書きをつけて、ふたたび採録さ

れた。前年の嘉永6年(1853)の「ペリー来航」のひと

つの「所産」である。

このように『マイヤー』の初版は、19世紀中葉のド

イツ人が自己と他者について如何なる認識をもってい

たかを示す。『マイヤー』の初版はかつては「引く」も

のであった。しかし、いまでは「読む」ものとなった。

百科事典は新版がでたからといって旧版を破棄するの

はもったいない。関西学院大学図書館はまたひとつ重

要な情報源を手に入れたことになる。

ちなみにヘルマンの子、ヨーゼフの孫のハンス・マ

イヤーは地理学者・出版業者として著名であるが、

1889年にはじめてキリマンジャロを征服したことで知

られている。

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No.74

早島  瑛(はやしま あきら)1970年ケルン大学卒業。歴史学、独文学、日本学専攻。1983年4月関西学院大学商学部教授。1987年デュッセルドルフ大学客員研究員(ヘンケル財団助成)。1996年ケルン大学客員研究員(フンボルト財団助成)。2003年同大学客員研究員(三菱財団助成)。主著:Die Illusion des Sonderfriedens, R.Oldenbourg Verlag München 1982. Heinrich Nicklisch undseine Leipziger Kommilitonen 1898-1914(『欧文紀要』社会科学篇、第7巻、2002年度版、関西学院大学、所収)。学位Dr.phil.

関西学院大学図書館報『時計台』No. 74 2004年4月1日発行

編集・発行 関西学院大学図書館

〒662-8501 兵庫県西宮市上ケ原一番町1-155 TEL(0798)54-6121

http://library.kwansei.ac.jp/ (ホームページ掲載)

デザイン・印刷 兵田印刷工芸株式会社

関西学院大学図書館報『時計台』

関西学院大学図書館報『時計台』

ISSN 0918-3639

コーベルガー『ラテン語聖書』とグーテンベルク『42行聖書』

表紙解説